9月17日(日)聖日礼拝

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「聖 書」

わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。

(ローマの信徒への手紙 14章7~9節)

説 教 「主のために生きる」

本日は「召天者合同礼拝」です。私共キリスト者は本日の礼拝を通して、先達の信仰に倣うことを知らなくてはなりません。私達の家族であった者の遺影が講壇前に飾られています。たとえ知らない人の遺影であっても、私共は、同じキリスト者として「兄弟姉妹」です。ここに並べられておられる方々は、私達に紛れなく「キリストの愛」を伝えておられる「証し人」です。本日は特に、このお写真の中から高橋文蔵牧師のことをお話しします。また、本日の御言葉を解き明かしするために、以前お語りした枡崎牧師の父君のお話もしたいと思っています。本日の御言葉は、「わたしたち(キリスト者)は、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。」と語ります。私達は「主のために生きる」ということを選び取っているでしょうか。私共の先代の牧師である高橋文蔵師は、日本福音クルセード主幹であった本田弘慈師から、「愛の使徒」と呼ばれました。師が「主のために生き、愛の実践者であった」からです。本田氏は自分の苦労していた時代から、私の事をずっと支え続けていただいたと文蔵師に感謝の言葉を述べました。そして文蔵師の事を「謙遜な神の僕」「信仰の人、祈りの勇者」「愛の使徒」と評したのです。文蔵氏が生涯「主のために生きる」道を選ばれたのは、神の愛を知り尽くし、その愛に応えていきたいと願ったからです。その道を歩む中で、キリストを選び取る信徒に出会い(写真の方々)、その信仰の生涯に、牧師として励まされ続けたからであります。本日の御言葉は、「兄弟を裁いてはならない」に記されたものです。その前の御言葉には、「隣人愛」が記されています。兄弟を裁かず、隣人愛を実践することは、「教会の交わりの本質」です。主御自身が、その道を行かれたことを思う時、その愛の実践は当然「然り」の道です。主は「兄弟を赦せ」(マタイ18章)と言われました。隣人ではありません。「兄弟」です。私達は最も近い人を「裁く」のです。主は敵であった私達を「兄弟姉妹」にしてくださいました。私達は、その御愛に応えていかなくてはなりません。私達の敵を兄弟姉妹に変えていかなくてはなりません。そのことが「主のために生きる」の意味です。枡崎牧師の父君は師を迫害した人です。しかし生涯、息子が迫害に堪え、「主のために生きる」姿を見て、自分も遂には回心します。その最期の言葉は、「お前は俺を天国の特等席に案内してくれた大恩人だ。」でありました。私達も写真の先達に対して、天国を指し示した恩人として感謝を捧げます。