「聖 書」
期待もしなかった恐るべき業と共に降られれば、あなたの御前に山々は揺れ動く。あなたを待つ者に計らってくださる方は、神よ、あなたのほかにはありません。
(イザヤ書 64章2~7節)
説 教 「待つ者」
待降節に入りました。キリスト教暦の一日目です。今年も喜びのクリスマスがやってまいります。私はいみじくも「やってまいります」と申し上げましたが、その言い方は正しく、クリスマスは「向こう」からやってくるのです。私達はただ、向こうから来る喜びのクリスマスを「待ち望む者」なのです。話が喜びを迎える日にややこしくなるのは本意ではありませんので、この事を簡単に申し述べるならば、私達が神の救いを「待つ者」であるからこそ、神は救い(クリスマス)を神の側から与えられるのです。では、私達は何を「待ち望む者」なのでしょうか。そのことを改めて教えてくださる御言葉が本日のイザヤ書63章と64章です。第三イザヤである61章には、貧しい者への福音の為に召し出される預言者の姿が描かれています。その福音を告げ知らされる民の状態は如何なるものであったかというと、バビロニア捕囚から解放され、帰国した民は、廃墟と化したエルサレムを見て、自己喪失を余儀なくされていたというのが現状でした。預言者は自己喪失している民に、その原因であった罪を自覚させ、神に立ち帰ることを勧めます。そして、神を「待つ者」に対して、福音が告げ知らされるのです。イスラエルの民は、「神を忘れ(御名を呼ぶ者はいない)」「悪(悪魔の支配)」に染まり、「汚れた者(尊大な者)」となり、神の怒りを身に受けていました。民が救いを求めても、神は「力を奪った」者として、民の目には映りました。そのような民に対して、民の一人一人を神の救いを「待つ者」に預言者は変えなくてはなりません。預言者はクリスマスを迎える私共にも同じことを語っています。あなたがたもまた、正しくクリスマスを「待つ者」であるかと。私達は預言者が語った「待つ者」の姿を自分に照らし、吟味しつつ待降節の中を過ごさなくてはなりません。それは如何なることでしょうか。それは御言葉に記された「あなたを待つ者(神御自身の到来を待つ者)」となるということです。もう既に二千年前に、イエス・キリストは到来されています。しかしなお今も、神御自身の到来を「待つ者」の思いは変わりません。神御自身の到来を待ち望む信仰者であるからこそ、今もあり続ける「神の到来」(イエス・キリストの到来)を経験し、その心に「信仰、希望、愛」が生まれてくるのです。信仰があるからこそ、光と希望と救いを待ち望むことができるのです。そして、神御自身の業を見ることができるのです。闇の世界は神を「待つ者」によって、光の世界へと誘われていくのです。