1月12日(日)聖日礼拝

「聖 書」

そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分りました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。神がイエス・キリストによってーこの方こそ、すべての人の主ですー平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送って下さった御言葉を、あなたがたはご存知でしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。

(使徒言行録 10章34~38節)

説 教 「油注がれた者」

本日は「主の洗礼」の箇所の御言葉が一般的には読まれています。しかし本日は違う箇所の御言葉を解き明かしながら、「洗礼」のこと、また「油注ぎ」について霊的な示唆を与えられたいと願っています。本日の御言葉で、ペトロはイエス様について、「神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。」と証ししています。「油注がれた者」とは「メシア」のことです。私は今、「メシア」と申し上げましたが、この答えは正しいとも言えるのですが、文意を汲み取るならば、誤答かもしれません。ペトロはイエス様のことを他の箇所では、明確に「メシア」を用いています。(「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、メシアとなさったのです。」2:36)本日の箇所で、ペトロは何故、「油注がれた者」という言葉を用いたのでしょうか。それは「主の洗礼」の出来事を思い起こせば理解できるでしょう。主がヨハネから洗礼を受けられた時に、「神の霊が鳩のように主の上に降られ、」天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞えたと福音書は語ります。つまり、「主の洗礼」は「油注ぎ」と解する場面です。では「油注ぎ」とは何か?「油注ぎ」は「聖霊の油注ぎ」です。イスラエルでは油は神の霊の象徴であり、即位、任職、奉献のときに、人や器物に油が注がれ、聖別されました。油注ぎは「神の働き(奉仕)のために聖別する油注ぎ」であり、「聖霊による油」を塗布されて、「権威と力」を授かります。(主に祭司、預言者、王)現在でも英国の戴冠式では油が注がれます。イエス様はヨハネからの洗礼の時に、「聖霊の油注ぎ」を受けたのです。イエス様は「神の権威と力」を公生涯に用いられました。本日の御言葉のペトロも又、ペンテコステの時に「聖霊の油注ぎ」を受けたのです。ペトロの霊的な目は開かれました。その開かれた目をもって、ペトロは、主イエスの生涯の信実や聖書の預言の成就を悟ることができたのです。そして、神の権威を行使する使徒の働きを為したのです。とはいえ、ペトロも又、「ただの人間」ですから、本日の御言葉にあるように、神に示されつつ、使徒として成長していったのです。(「神は分け隔てされない」「イエス・キリストは、全ての人の主」ケリュグマ(使徒伝承)の過程を見る)神は今も私共に油注ぎを為したいと望んでおられます。油注ぎを受けたダビデは詩編を73編も残しました。霊の喜びで満たされていたからです。私共も又、霊の油注ぎを受けて、霊の喜びの讃美を捧げる一年を目指して歩みましょう。