1月16日(日)聖日礼拝

「聖 書」

イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。

(ヨハネによる福音書 2章1~11節)

「栄光を現された」

先週の礼拝にて、「新しい歌を主に向かって歌え」(教会標語)の具体的な信仰を使徒ペトロを通して、御言葉より聴きました。ペトロは「ただの人」でした。しかし初めてペトロに出会ったコルネリウスは、ペトロの足もとにひれ伏して拝みました。ペトロに「神の栄光」が現されていたからです。彼は勿論、自分が「ただの人」であることを誰よりもよく知っていました。しかし、この「神の栄光が現されている」事実は、私共、一キリスト者にとって、とても大切な意味があります。本日の御言葉の最後の一句を御覧下さい。「イエスは、…その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」とあります。主イエスに現された、この栄光は、私共の生涯にも現されるものです。本日は、この素晴らしい恩寵の恵みを御言葉より聴きたいと願っています。さて本日の御言葉は「カナでの婚礼」です。ヨハネ書は、主の洗礼から始まる一週間を「公生涯」の象徴として記し、本日の御言葉を「締め括り」としています。ヨハネはキリスト論を象徴的に語ることを旨としているのです。本書の冒頭にて、キリストを「言」(ロゴス)として語り、「言は神と共にあった」と信仰告白しています。この「共に」は(プロス)です。(シン:with)ではありません。直訳では「向かって」になります。意訳すると「言(子)は神(父)と向き合っていた」となります。ペトロも又、主と向き合う信仰の世界に身を置くことを通して、神の栄光が現れることとなったのです。本日の「奇跡物語」は「しるし」と呼ばれます。(セメイオン=サイン)が原語です。本日の奇跡物語は、何を「指し示す」のでしょうか。それは「神の栄光」です。「栄光」は(カーボード)「重み」のことです。つまり、この処の意味は「神の内に秘められた栄光の重み」のことです。その神の栄光を弟子たちは見て(エイドン)、信じたのです。「カナでの婚礼」の奇跡の内に秘められた「栄光」を見る者でありたいと願います。私共は何か不思議な奇跡を見て、信仰を得るのではありません。神の存在証明が為されたから信仰を得るわけでもないのです。神の栄光に触れる時に、人は信仰の世界に入ります。母マリアが、我が子の主に願い事をしたときに、「婦人よ」と返されました。「婚宴」を「終末の婚宴」とする象徴です。マリアは神に目を向け、主のことを「この人」と返しました。私共の日々の出来事の中に、常に神の栄光は現されています。