1月17日(日)聖日礼拝

「聖 書」

あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。しかし、主に結びつく者は主と一つの霊となるのです。みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。

(コリントの信徒への手紙 一 6章13~20節)

説 教 「自分の体で神の栄光を」

主は「洗礼」を受けられた後に、「公生涯」に入られました。「主の洗礼」は「主の僕」として遣わされていくための「正しいこと」(マタイ3章)でありました。主は公生涯の初めに弟子を招かれました。初めの弟子であるアンデレは主に出会い、すぐに兄であるシモンに伝道しました。その時の言葉が、「わたしたちはメシア「油を注がれた者」に出会った。」でした。(ヨハネ1:41)ヨハネの言葉があったとはいえ、どうしてアンデレは、メシアであることを告白できたのでしょうか。それはやはり、主の体から感じ取られる「神の栄光」であったでしょう。このことは、主は「神の子」なのですから当然なことだと思われるでしょうか。そんな簡単なことではないと私は思います。主は洗礼を受けられた後に、すぐに世に出られたのではありません。「荒野の40日(悪魔の誘惑)」(マタイ4章)を先に受けられたのです。その全ての誘惑に打ち勝つことを通して、「神の栄光」を身に纏い、公生涯の道を始められたのです。まことの「新しい神殿」の姿として、御立ちになったのです。私共も又、主イエスを信じ、聖霊の洗礼を主に授けられた時から、「新しい神殿」の命を生きる者とされました。肉の命ではなく、霊の命を生きる者とされたのです。にも拘わらず、私共の命は相変わらず、肉の命に支配されてはいないでしょうか。本日の御言葉は、過去の話ではなく、現代にも通じる「普遍の問題」に対して、コリントの人々にパウロが答えを与えているものです。主も又、肉の命を纏い、肉の命に対処する道を通られました。私共も又、「神の子」とされた以上、主の通られた同じ道を行きます。パウロの言葉を聞きましょう。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。(メシア=苦難の僕)だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」このことは私共に可能なことなのでしょうか。私共には不可能に思われます。ではパウロの真意は何なのでしょうか。彼は「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿です。」と語っています。パウロの語っている意味は、こうことなのです。キリスト者とされた者は福音を生きる者とされる。しかし肉の欲に負けて、自分に負けることもある。しかし聖霊の宮であるあなたには神の永遠の命があり、どんな時も永遠の命が守るのだというのが、彼の語る意味です。その命が祝福を受けた命であり、神の栄光を現す命です。