1月19日(日)聖日礼拝

「聖 書」

主にのみ、わたしは望みをおいていた。主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ、わたしの足を岩の上に立たせ、しっかりと歩ませ、わたしの口に新しい歌を、わたしたちの神への賛美を授けてくださった。人はこぞって主を仰ぎ見、主を畏れ敬い、主に依り頼む。いかに幸いなことか、主に信頼をおく人。ラハブを信ずる者にくみせず、欺きの教えに従わない人は。

わたしの神、主よ。あなたは多くの不思議な業を成し遂げられます。あなたに並ぶものはありません。わたしたちに対する数知れない御計らいをわたしは語り伝えて行きます。あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず、焼き尽くす供え物も罪の代償の供え物も求めず、ただ、わたしの耳を開いてくださいました。

(詩編 40章2~10節)

説 教 「神への賛美の歌」

本日の御言葉は「メシア詩篇」と呼ばれるものです。それは、如何なる所から、それと解することができるのでしょうか。それは、「ただ、わたしの耳を開いてくださいました。」(40:7)のところに「贖いの主」「受肉の主」が示されてあるところから解することができます。このことを理解する為には「霊の目」が必要でしょう。霊の目が開かれていた「ヘブル書」の著者は、この詩編40編を「メシア預言」として引用しました。「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、むしろ、わたしのために、体を備えてくださいました。」(ヘブル10:5)(「罪を贖う唯一のいけにえ」が記された箇所)この翻訳は意訳です。詩編の「耳を開く」は(カーラー)であり、「穴をあける、刺し通す」の意味です。この言葉は、旧約においては、奴隷が解放される時が訪れても、自ら耳に穴をあけ、主人を「愛している」ことを伝え、その「からだ」をすべて捧げる意思を伝える行為としての言葉です。つまり「耳を開く」は主人の為に「からだを捧げる」の意味なのです。ですから、その意味を知るヘブル書の著者は「耳を開く」を「わたしのために、体(ソーマ)を備えてくださいました」と解釈したのです。この意味は勿論、キリストの「受肉」のことであり、私共の罪の為の「贖い」を示しています。これは「神の愛」のことです。この意味を知る者は「神への賛美の歌」を歌うことでしょう。このように「詩編」を味わうことができるようになると、信仰者の生涯は、いよいよ豊かなものと為されていきます。私共が「詩編」を学ぶ意味は、そこにあります。ルターは自作のコラールは詩編を基に作りました。カルバンは詩編は神を賛美する最上のものであり、詩編以外に讃美歌を認めないと語りました。ミラノ司教であったアンプロシウスは詩編は神の恵みの果実であり、救いの薬であると語っています。私共も又、詩編を味わう者とされたいと願います。そして、詩編に記された信仰者の赤裸々な姿を通して、私共の信仰の姿と重ね合わせ、神により励ましと支えを戴きたいものです。私共が詩編を「歌う」ことができるようになると、良い感化を与える者となることができます。私共の教友に松坂兄がおられます。兄は讃美歌を常に口ずさみながら生活を送っておられました。その姿を知る者は彼の信仰の姿にキリストを見たのです。「賛美」は、神が私共の口に授けて下さる「恵み」です。これは救いに与った者の特権です。多くの信仰の先達が、詩編を高く評価してきました。私共も又、その秘密を確かめてまいりましょう。