1月24日(日)聖日礼拝

「聖 書」

 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。 イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

(マルコによる福音書 1章14~20節)

説 教 「わたしについて来なさい」

本日の御言葉は、「ヨハネが捕らえられた後」と始まります。洗礼者ヨハネが登場して、主イエスに洗礼を授けられた後に、説明なしに突如「ヨハネが捕らえられた」となります。その説明は6章14節~に記されています。そのところでは既にヨハネは殉教しています。ヨハネを殺害したヘロデ王が主イエスの評判を聞いて語る言葉です。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」(6:14)イエスのことをヨハネの生き返りだと恐れています。つまり主イエスはヨハネの働きを引き継いでいると捉えています。それどころか主イエスの「奇跡を行う力」を聞いて、それ以上の者であると恐れています。つまりヘロデは、主の奇跡を「裁きの神のしるし」と捉えているのです。この見方は正しい主の捉え方ではありません。主の「奇跡」は主が救い主(メシア)であることを示している「神のしるし」です。私達は神が与えられた福音「神の国」を受け入れず、自らを王とするヘロデと同じです。主イエスは、その罪の只中にある世の人々に「福音」を届けるために、世に来られました。私共は罪の中に死んでしまう者であってはなりません。罪の支払う報酬は「死」です。私共は福音を信じ、神が与えられた「神の国」を恩寵の内に戴きましょう。本日の御言葉の14-15節は「主の公生涯」を要約したものです。ヨハネの語っていた言葉との違いは、「時は満ちた福音を信じなさい」です。では「福音」とは何でしょうか。それは世の誘惑に負け続け、自己中心に生き、死に向かって歩み続けていた者が、主イエスを信じ、「神の国(支配)」に入れられることです。では「神の国」とは何か。それは、全き救いが完成されている「神の王国」のことです。本日の御言葉の前節では、「荒野の40日」が記されています。主は神の子でありながら、私共と同じ「試み」を受けられました。しかし、その所においては、「霊と天使たち」が守り、仕えていたと記しています。私共も又「聖霊の洗礼」を受けた時から、主と同じくどんな困難な所を通ろうとも「神の守り」があるのです。これが「神の国」の住人にされている意味です。「時は満ちた」主の到来のことです。今、私共には霊と主が守り、仕えて下さっています。それでもなお私共は不安を生きます。だからこそ主は弟子を招かれ、「わたしについて来なさい」と言われたのです。主について行く者は神の国を知るのです。