1月26日(日)聖日礼拝

「聖 書」

主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦、わたしの誰の前におののくことがあろう。さいなむ者が迫り、わたしの肉を食い尽くそうとするが、わたしを苦しめるその敵こそ、かえってよろめき倒れるであろう。彼らが陣を敷いても、わたしの心は恐れない。わたしに向かって戦いを挑んで来ても、わたしには確信がある。

ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで、喜びを得、その宮で朝を迎えることを。

 (詩編 27章1~14節)

説 教 「神の美しさ」

本日の午後からゴスペルの練習があります。ゴスペルには聴く者の心を震わす力があります。ただ美しい歌声だけではなく、「メッセージ」があるからです。では、その「メッセージ」とは一体何でしょうか。それは「福音」です。それは「神を喜ぶ力」です。ですからゴスペルを本当に歌いたい人は教会に来て、イエス・キリストに出会う必要があります。「本物の教会」は「主の臨在」がある場所です。私共の教会も又、常に「本物の教会」を目指して歩んでいます。さて、本日の御言葉をご覧下さい。ダビデの「神を慕う歌」が記されています。ダビデは6節で、「主に向かって賛美の歌をうたう」と歌っています。ダビデは「神を喜んでいる」のです。ダビデはゴスペルを歌っているのです。ダビデは神の豊かな「臨在」の中に住んでいるのです。4節をご覧下さい。その所に、今、お語りしたダビデの心情が記されています。信仰者ダビデに、どのような苦難が訪れようとも、ダビデは主に「ひとつのことを願う」と語っています。それは、「主の家に宿る」ことです。また、「神の美しさを仰ぎ見る」ことだとダビデは告白しています。この所は新共同訳では、「主を仰ぎ望んで喜びを得」となっていますが、これは「主」が「美しい」ということを、読者は理解していることを前提の上の邦訳です。原文では、神の「ノーアム」となっています。「ノーアム」とは、「慈愛・好意・美」を意味し、神の特性である「慈悲深さ・寛容・善き属性・祈りに答えられる優しさ・罪深きしもべを赦される愛・世界を支え、動植物に糧を与えられる愛等」として、「ノーアム」が用いられています。ダビデは自らも「罪赦された者」として、信仰の喜びを生きる者です。彼にとって、神は「光」であり、「救い」なのです。彼にとって神の美しさは「ノーアム」なのです。彼は「神の美しさ」を知る者なのです。私共にとっても、このダビデの信仰は見倣うべきものです。本日はゴスペルがありますから、一つ具体的な話を、ゴスペルを通して、更にお語りしましょう。ポピュラーなゴスペルに「私の人生は神様の手の中にある」があります。詩篇31編15節に記された心情を歌ったような歌詞です。作者はカーク・フランクリンです。彼は幼い時に両親から離され、クリスチャンである叔母に育てられました。叔母は空き缶集めをして、カークを育てました。彼は思春期に非行に走りました。15歳の時に親友が銃に撃たれ亡くなりました。このことを契機に彼は悔い改め教会に戻りゴスペルを作りました。彼は苦難の中、神の美しさを知ったのです