1月9日(日)聖日礼拝

「聖 書」

そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。神がイエス・キリストによってーこの方こそ、すべての人の主ですー平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存知でしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。

(使徒言行録 10章34~38節)

「聖霊と力によって」

主の年2022年「教会標語」詩編96編「新しい歌を主に向かって歌え」が、私共に与えられました。この御言葉を体験した人がペトロです。このことを本日の御言葉は具体的に語っています。本日の御言葉は何度か「説教」致しました。基となる解き明かしは以前の通りです。本日は「教会標語」の内実に触れるために、ペトロの信仰に焦点を当てて、解き明かしを致します。ペトロは田舎の漁師であり、「ただの人」でした。また、私共と同じ「弱さ」を持つ、親近感が持てる人物です。その「ただの人」が、「使徒」として、大きな働きを為す者とされました。その「力の源」は、どこから来たのでしょうか。以前、私は、ペトロは復活の主に出会い、聖霊降臨の恵みに浴したから、このように変貌したのだと思っていました。このことは間違いではありません。しかし私は外側の出来事のみに目を向け、内実を知ろうとしていなかったのです。本日の御言葉はコルネリウスとペトロの出会いです。福音が異邦人にも開かれていく場面です。この二人の出会いは「聖霊の働き」でした。二人の計画ではなかったのです。二人は霊の導かれるままに出会い、二人ともが「新しい世界(霊)」を体験したのです。ペトロは聖霊体験により、霊の目は開いていました。しかし霊の世界は、日々新しくされるのです。ペトロが霊の目が開かれていた証拠は、彼の証にあります。「イエス・キリストは、すべての人の主です」「神は、聖霊と力によってイエスを油注がれた方となさいました」この証を聖霊はペトロに体験させ続けているのです。「ただの人」は、人イエスにつまずきます。しかしペトロは聖霊の働きによりて、「信仰告白」を為し続けているのです。ペトロは主イエスを「油注がれた方」と告白しました。メシアやキリストの称号を用いずに「油注ぎ」(クリオー)を用いた理由は、「油」は神の霊の象徴であり、「油注ぎ」は聖別を与え、注がれる者に「神の権威と力」が与えられることを意味します。現在でも英国の戴冠式では「油注ぎ」が行われています。「主の洗礼」の時に「聖霊の油注ぎ」がありました。これは3つの事実を証しました。「天が開け」「聖霊が降り」「神の「私の愛する子」の声が聞こえる」です。この後、主は公生涯に入られました。私共も又、神が「聖霊の油注ぎ」をして下さいました。私共も使命に生きます。人々を助け、悪魔に苦しめられている人々に福音を知らせ、癒しを届けます。