10月13日(日)聖日礼拝

「聖 書」

イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。次の言葉は真実です。

「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。」

(テモテへの手紙二  2章8~13節)

説 教 「キリストと共に生きる」

パウロは最期を迎えることを覚悟しつつ、囚われの身でありながら感謝の内に過ごしています。それは何故かというと、パウロは愛する者たちのことを思い、主のことを思い起こしながら「キリストと常に共にある」ことに感謝を捧げているからです。パウロは最期を迎えるにあたり、愛する者に「主イエス」を遺さなくてはなりません。「福音」を遺さなくてはなりません。それは具体的に、どのようなことを為すことなのでしょうか。教会にとっても大切な信仰の継承を考える上にも、本日の御言葉は大切なものです。今、私は「信仰の継承」と言いましたが、「信仰の継承」とは本当は如何なることなのかも併せて御言葉に聴くことに致しましょう。信仰の継承は「わたし」や「あなた」を残すことではありません。信仰の継承は「キリスト」を残すことです。信仰はピスティスですが、信仰というよりは、「信実」「真実」「誠実」「忠実」「信頼」「確実」と解する言葉です。本日の御言葉をご覧下さい。次の言葉は「真実」です、や、わたしたちが「誠実」でなくても、キリストは常に「真実」であられる、の鍵括弧の中の言葉はすべて「ピスティス」です。キリスト者の「信仰」を見事に表しています。「私たちが誠実でなくても」は(直接・現在・能動)ですから、「私たちが(信仰に)不真実でありつづけても」の意味です。私たちの信仰は私たちのものではありません。私たちの信仰は聖霊の働きであり、「神の恵み」なのです。前節に「その信仰はまず祖母、母に宿り」(1:5)と記されてあります。「宿り」はエノイケオーであり、「住み込む」の意味です。つまり信仰は聖霊を魂に「住み込む」神の恵みのことです。この恵みは、パウロがテモテに「あなたにも宿っていると確信している」と語ったように、信仰は継承されていくものです。それは唯々「恵み」によるのです。私たちの信仰は福音です。その福音を宣べ伝えていくうえで、明らかにしておかなくてはならないことがあります。それは「何を」「誰が」「どのように」です。この答えを一文で答えるならば、「ゆだねられた正しい「御言葉」(信仰)を、正しく受け取ることができる信仰者(貧しい者)に、イエス・キリストと共に生きることを通して、福音を伝えていく」となります。「イエス」を遺し、「福音」を遺し、「信仰」を残すことは、言葉ではなく、聖霊の働きを通して、「キリストと共に生きる」内なる喜びを通して、キリストを伝承していくのです。(証し人のビデオ視聴)私共もまたパウロと同様に、愛する者に主キリストを遺す者となりましょう。