10月17日(日)聖日礼拝

「聖 書」

イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」というと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左に誰が座るかは、わたしの決めることではない。それは定められた人に許されるのだ。」(略)そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。

(マルコによる福音書 10章35~45節)

「わたしが受ける洗礼」

いよいよマルコ書の「エルサレム入城」が近づきました。マルコ書は受難の出来事に多くの紙幅を割いています。マルコが「受難」に福音の真実を見ていたからです。私共は現在、マルコ書を通して、福音の恵みに浴していますが、本書を通して更に深く「受難」に示された「神の愛」を悟り、永遠の命の世界に目が開かれた者とされるように願いながら、本書の説き明かしに耳を傾けましょう。さて本日の御言葉は、「ヤコブとヨハネの願い」です。弟子たちはエルサレムに上って行く途中に、主の三度目の「受難の予告」を聞きます。さすがに弟子たちもエルサレムにて身の危険が迫っていることを悟ります。そのことを悟った今、ヤコブとヨハネは栄光の座の保証を主に求めました。あなたに命を賭けて従いますが、何の保証のない犬死には嫌ですと思ったのです。彼らが世の支配に生きていた証拠です。主は彼らが永遠の世界に目が開かれるようにと「受難」について教えます。「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか。」と問いつつ、「受難」の真実を伝えられたのです。受難は「苦き杯」である。この「杯」は、何かの報いを得るために受けるものではない。この「杯」は父である神の愛であり、父の痛みそのものである。報いを得るためではなく、「苦しみを受ける」そのことに意味があるのである。それは全ての人の罪を担い、その苦しみから逃げずに、背負いきるがゆえに味わう苦しみが「受難」であるからだ。この意味について、主は「捨てる」と「仕える」という言葉を通して、弟子たちに教えられたのです。本日は「召天者合同記念礼拝」ですが、私共の群れの祖であるバックストン先生は、弟子たちに言葉を残しました。「あなたの人生を飲んだぶどう酒によってではなく注ぎ出したぶどう酒によって計りなさい。何を得たかではなく何を失ったかによって計りなさい」そしてウイルクス先生は、「私たちはあなた方の持っていない何かを持ってはいません。ただあなたがたの持っているすべてを失っただけです」と霊的賜物を得る秘訣を語られました。本教会の先達もまた「身を慎み、互いに愛し仕え合う人生」を歩み抜かれました。「わたしが受ける洗礼を受けることができるか」これは、キリストと共に葬られ、共に新しい命に復活するという意味です。私共はキリストの為、福音の為に己を捨て、己を聖なる供え物として神に捧げます。この信仰が遺産です。