10月18日(日)聖日礼拝

「聖 書」

それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。『先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれもはばからないで方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

(マタイによる福音書  22章15~21節)

説 教 「神に返しなさい」

どうしてファリサイ派の人は、主イエスの「言葉じり」をとらえて、罠にかけようとしたのでしょうか。それは、主イエスの「たとえ」が神の真実を伝えていたからです。彼らの心の中の内実を衝いていたからです。その一つの証拠に、彼らは主イエスの「言葉じり」をとらえようとしています。彼らは、神殿粛清を為した主イエスに、「何の権威でこのようなことをしているのか。」と問いました。私達の権威を侮っているのかという思いも込められています。そこに真の権威を示す「たとえ」を主が語られました。真の権威とは「神そのもの」です。彼らは、未だ主イエスに「神の権威」を見ることができないのです。彼らは主イエスの「言葉じり」をとらえようとしています。彼ら自身が「嘘の言葉」で生きていた証拠です。彼らは、「皇帝への税金問題」で主を罠にはめようとしました。(詳しくは前の説教も参照下さい。2011.10.16、2014.10.19参照)人の「言葉」には、その人が表れています。主は彼らの悪意に気づかれました。「はい」も「いいえ」も、どちらを答えても罠にはまる問い。彼らが問うているのは、税金を納める是非ではなく、「アウグストゥスの子、神なる皇帝ティベリアス・カエサル」と刻まれたデナリオン銀貨を神殿に納めるのは律法に適っているかという問いです。イスラエル人にとって屈辱を伴う納税です。しかし、時の権力者でもあった宗教家は、自らは銀貨を触らずに、両替をさせて神殿税を納めさせていました。宗教家は聖書の言葉を都合の良いように解釈をして、民衆に教えたのです。彼らは自己の権威を保持するために、詭弁を弄していました。彼らの解釈が神の正義であり合法なのです。これは現在にも通じる権力保持の手法です。彼らは「嘘の言葉」(詭弁)こそが彼らの内実だったのです。だからこそ彼らは、主イエスに、自分たちと同じ手法をもって対峙したのです。それに対して主は真実のみで答えられました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」あなたたちが恐れる皇帝は神ではない。世にあって人の権力に支配されず、世に阿ねず、金に支配されるな。私達「人」にこそ「神の像」が刻まれている。主は彼らを「偽善」と呼びました。「神から遠く離れている」ということです。人は「神のもの」です。彼らの持っている権力も神に返すものです。そして本当の権威に服すとは、神のものである自分(命)を神にお返しすることです。