10月20日(日)聖日礼拝

「聖 書」

だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。

(テモテへの手紙二 3章14~4章2節)

説 教 「御言葉を宣べ伝えなさい」

今、パウロはテモテへ「最後の勧め」を為そうとしています。手紙の結びです。パウロは最後にテモテへ「3つの勧告」を為しました。一つは「御言葉を宣べ伝えなさい」です。後の二つは「忍耐強く、十分に教えなさい」「自分の務めを果たしなさい」であります。本日は特にパウロの「遺訓」である「御言葉を宣べ伝えなさい」に重きを置いて解き明かしを致します。パウロは「最後の勧め」を語るにあたり、「あなたは自分が学んで確信したことから離れてはなりません」と語りました。これは「御言葉」と共に、祖母や母、そしてパウロの「証し」から学んだことを言っています。この二つのことは、同根のものでもあります。「御言葉」とは何でありましょう。次節で記された「聖書」のことでありましょうか。このところには説明が必要です。パウロが語る「聖書」は「旧約聖書」のことです。律法学者たちは「旧約聖書」に精通していましたが、主に「偽善」との叱責を受けました。先週視聴したイスラエル人の「証し」を聞いても、現代においても「ユダヤ教」は同じ道を歩んでいることを思わされます。パウロが、このところで語る「聖書」は「神の霊の導きの下に書かれた」「諸文書」のことです。何が言いたいのかと言いますと、聖書は聖霊の助けをもって読む「書」であるということです。聖書を読む時、「旧約聖書」は新約の光を当てて読み、「新約聖書」は旧約聖書の成就として読むことが肝要です。つまり「聖書」はイエス・キリストを通して読む時に、初めて「有益」なものとなるのです。ですからパウロは「学んだ聖書」を宣べ伝えなさいと言わずに、「御言葉を宣べ伝えなさい」と言ったのです。「御言葉」とは「イエス御自身」のことです。旧約時代の預言者が語っていたものは、主が「実体」であったのです。聖書は、「人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに」有益であるとパウロは語りました。この意味は、聖書は、「実生活の中で聖書を活用する」ことで、前述のことを体験するということです。しかしこの体験は、主への「信仰」のみが可能にする「体験」です。このことについては柘植先生も同じことを語っておられます。(「活水」参照)私共信仰者は「主の中に」います。私共の「中に主はおられます」。私達は、その主である「御言葉」を宣べ伝えるのです。そうすることを通して、パウロが語った「3つの勧告」は同じことを語っていたことを理解できるでしょう。私共は自分に死に、主に器として明け渡す時に、御言葉を宣べ伝える使命に生きることができるのです。