10月27日(日)聖日礼拝

「聖 書」

わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。

(テモテへの手紙二 4章6~18節)

説 教 「義の栄冠を受ける」

「テモテへの手紙二」のパウロの最後の言葉となりました。パウロは、「世を去る時が近づきました。」と語ります。原語に忠実に訳すならば、「さあ、出立です。」の意味です。パウロは天の御国を見上げています。「今や、義の栄冠を受けるばかりです。」パウロの語る「義の栄冠」とは何か。本日は、その意味を解き明かしつつ、キリスト者の「遺すもの」について、深く御言葉に示されましょう。キリスト者には5つの「冠」が与えられます。「朽ちない冠」(一コリント9:24)「喜び、誇りの冠」(一テサロニケ2:19)「義の栄冠」(二テモテ4:8)「栄光の冠」(一ペテロ5:4)「いのちの冠」(黙示録2:10)の5つです。ここで語る「冠」はステファノスで、キリスト者の最初の殉教者である「ステファノ」の語源となる言葉です。ステファノは、その最期の時、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える。」と語りました。彼は、「冠」を受けたのです。その「冠」は神と共に神の国を支配する「王としての冠」であり、神の言葉に忠実に歩み抜いた信仰者に与えられる「勝利者としての冠」のことです。パウロも又、同じ「冠」を授けられようとしています。パウロは「主が、かの日にそれ(義の栄冠)をわたしに授けてくださるのです。」とはっきりと語りました。「主が授けられる」は「直接、未来、能動」です。この意味は、「主が必ず授けてくださる。」ということです。パウロは聖霊の働きによって確信が与えられています。パウロは、その神の祝福を何故、「義の冠」と語ったのでしょうか。それは「罪」の対語が「義」であるからです。彼は、「罪」とは神を信頼しない「離反」と捉えています。「罪が支払う報酬は死です。」(ローマ6:23)彼の言葉です。彼は、その信仰の生涯の最後に「義の冠」を授かると言ったのです。この意味は罪の対が義である以上、「永遠の命を授かる」と語ったことと同じです。私共も同じ道を行きたいものです。パウロは御言葉(キリスト)に忠実でした。神に信頼し、罪、サタンに打ち勝ちました。その姿はキリストの生涯に倣うものでした。私達キリスト者は愛する者たちに「遺すもの」は、この「天国の幸いの姿」です。それを遺すことができたならば、この世に「天国」を広げていくことができるでしょう。パウロは、続けて語りました。「しかし、わたしだけでなく、主が来られるのを待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」私共も又、「主が決められた道を走りとおし」、信仰を守り抜き、「義の栄冠」を「必ず」主より共に授かりたいと強く願います。