11月17日(日)聖日礼拝

「聖 書」

わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、あなたがたがわたしたちになかったからではなく、あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。

(テサロニケの信徒への手紙二 3章7~12節)

説 教 「模範を示す」

パウロ先生はテサロニケの信徒の人々に向けて、手紙の最後にあたり、パウロ先生のしてきたことを思い起こすように勧めています。その言葉は、「あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示した。」というものです。この意味は「自ら働いてパンを得よ」という模範のことでしょうか。この所は説明が必要です。テサロニケの人々の中には、主の再臨を曲解し、「もはや働く必要がない」と誤解する者がいました。パウロ先生が語る「働く」はパンを得る「働く」の意味だけではありません。主の御用の為に「働く」という意味こそが語られていることです。テサロニケの人々は「第一の手紙」で、パウロ先生から、「すべての信者の模範となっている」と、お褒めの言葉を頂いています。ここで用いられる「模範」(テュポス)は「手本・見本」「原型・本来あるべき姿」を意味しています。つまりキリスト信者としての「本来あるべき姿」をあなたがたはよく堅持しているということをパウロ先生は喜んでおられるのです。ではキリスト者の「本来あるべき姿」とは何でありましょうか。勤勉さですか、真面目さですか。それはそうではありません。「御言葉を(神の言葉として)受け入れる」ということです。パウロ先生達の語った言葉は「人の言葉」です。しかし彼らは、「神の言葉」として受け入れ、その受け入れた「神」に聴き従い、日々「神の言葉」に聴き、その生活をパウロ先生達に倣いつつ、信仰生活を守っていたのです。パウロは、そこに「神の働き」を見て、感謝を捧げているのです。では本日の御言葉は如何なる意味を語っているのでしょうか。本日の御言葉をよくご覧下さい。「働かない者は食べてはならない」ではなく、「働きたくない者は、食べてはならない」と言われています。この意味は深淵です。体の障害の為に「働くことができない」人もいます。パウロ先生の語る「働きたくない者」とは、神の言葉を聴きながらも、「神の御用の働き」を拒む者の意味です。障害がある者も、「主の働き」はできます。むしろその「働き」は信仰者を鼓舞するものとなることも大いにあります。パウロ先生は、その「働き」に対して、「落ち着いて仕事をしなさい」と語られました。この「落ち着いて」(ヘーウキアス)は「静か、沈黙」の意味です。この意味も又、深淵でしょう。静かに黙想し、神と交わり、神に聴き、神と共に「神の御用」をしなさいの意味として語られているからです。私共も又、どのような時でも、「沈黙して、主と共に、喜んで働く」模範を示す人生でありたいと願います。