11月29日(日)聖日礼拝

「聖 書」

わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。

(コリントの信徒への手紙 一 1章3~9節)

説 教 「キリストとの交わり」

待降節第一主日をお迎えしました。キリスト教歴の第一日です。「主人公のマルチンは「主を待ち望む」幸いが、天国を生きる原動力になりました。」先週の「終末主日」の説教の結びです。キリスト教歴は円環です。永遠の神の時を刻んでいます。ですから、先週の御言葉が終わりではありません。キリスト教歴の終わりは途切れることなく始まりに繋がっています。私共はキリスト教歴の「円環」の中で、高みに昇りゆくループを描きながら「天の都」を目指しつつ、世にあっては「御国建設」の務め(ミニストリー)に励むのです。これは「主を待ち望む」希望がなくては為すことができない人生の歩みです。このことを可能にする原動力は私共にはありません。すべては「神の恵み」です。このところの真理をパウロは、本日の御言葉を通して、私共に教えてくれています。彼は混乱の中にあるコリントの教会に質問に答える形で手紙を書きました。その冒頭で、未だ「神の教会」に程遠いであろう彼らに、「神の教会」「聖なる者」と呼びかけたのです。これは世辞ではありません。パウロの確信です。前節の挨拶の中で彼は自分のことを、「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロ」と紹介しました。使徒とは「遣わした方」の御旨を遂行することが目的です。ですから、そこには自分はありません。遣わされた所で教会ができても、それは自分の業ではありません。教会は神が建て上げられるのです。主はペトロに対して、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」(マタイ16:18)と言われました。「わたしが建てる」と言われたのです。コリントの人々に、どんなに問題があろうとも、神が召されているならば、教会の全責任を神が負うて下さいます。神が「神の教会」「聖なる者」となるまで、全責任を負うて下さるのです。これがパウロの確信であり、信仰です。又、この真理は今も変わらぬ真実です。具体的な証しを一つ紹介します。ミス・デントンは「同志社の宝」と言われた教師です。彼女が何故、「ミス・」と呼ばれ続けたのか。それは婚約者がありながら、召命に応え、一生を主に仕える道を選ばれたからです。彼女の口癖は「世界で一番良い国は日本、…同志社の中で一番良いところは女子部」でした。彼女は自分を生きたのではなく、キリストとの交わりに招き入れられた時から、キリストの現れを待ち望みつつ神の真実を生きたのです。私共も又主と共に参りましょう。