11月3日(日)聖日礼拝

「聖 書」

イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。

(ルカによる福音書 19章1~10節)

説 教 「失われたものを捜して救うために」

以前の説教にて、本日の御言葉を「今日、救いがこの家を訪れた」という説教題をもって解き明かしを致しました。ザアカイが経験した救いである「家」を解き明かす為です。(2016.10.30参照)ザアカイの経験した「救い」は共同体の回復であり、家の回復でした。救いは神との交わり、人との交わりの回復を意味しています。神はザアカイの最も必要なことを御存じであったのです。彼は「財産を施します」と主に言いました。彼の感謝の表れでしょう。しかし、この意味は他の意味も語っています。彼は共同体から排除され、孤独を生きていました。金と地位だけが頼りでした。その彼が「金」の執着を捨てて、神に寄り頼む人生に変えられたのです。彼は神から「義とされた」のです。前章に「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」(18:9)が記されています。そこには神に立ち帰る徴税人の姿が描かれています。主は「(神に)義とされて家に帰ったのは、この人であった。」と言われました。先週、解き明かしの中で語った「義の栄冠」の具体的な意味を本日の御言葉は語っているのではないでしょうか。「神への立ち帰り」「自分を捨てて、神を信頼する」「神の御心に生きる」以前の説教で語ったことです。この全ての事は一つの事であって、主への感謝の表れです。この感謝の応答に対して、神は彼に「義の栄冠」を授けて下さるのではないでしょうか。しかし彼が神に感謝を捧げたのは、神からの救いが先にあったからです。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」主の御言葉です。ザアカイは主を見たいと思いつつ、主に声を掛けていません。主の方から声を掛けられたのです。原意に忠実に訳すならば、「今日(この今)、私はあなたの家に泊まらなくてはならない。(それを神が強く望んでおられるから)」何故、主は、このような言葉かけを為されたのでしょうか。その意味はルカ書15章に記された「失われたもの(アポリューミ)」にあります。「見失った羊の譬」では、羊飼いが見失った羊を見つけて、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と語ります。羊飼いの見失った羊への心の痛みと愛が、よく汲み取れます。この3つの「アポリューミ」は、すべて神の痛みの表現です。神は、神から離れ滅びに至る人を、痛みの心を持って見ておられます。ただ見ているだけではありません。人を救うために御子を送られ、失われたもの(あなた)を救うために、今も必死に捜し、声を掛け続け、あなたが帰って来るのを待っておられるのです。ザアカイは、この神の愛を知り、応答したのです。