11月8日(日)聖日礼拝

「聖 書」

そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

(マタイによる福音書  25章1~13節)

説 教 「婚宴の席」

本日の有名な御言葉「十人のおとめのたとえ」は、主が十字架の死を目前にした、弟子たちに向けて語られた「最後の説教」です。主は何故、最後の説教に「終末」のことを語られたのでしょうか。それは、24章の冒頭にあるように、弟子たちが終末のことを主に尋ねたからです。弟子たちは、多くは「聖書の民」でしたが、終末は恐れの日でした。終末が神の裁きの日であることを知っていたからです。イエス様の終末の話は如何なるものだったでしょうか。主の語られた終末は「婚宴の宴」でした。主の再臨の時は終末の始まりの時ですが、主の再臨は「神の国の完成」の始まりをも意味しています。つまり主は、弟子たちに向けて「終末」は「神の国」の完成の日であり、「神の国の姿」は「婚宴の宴」なのだと教えられたのです。その「神の国」の完成の為に、わたし(主)は、今から十字架に向かうと言われていたのです。主は私共の罪の贖いの為に十字架に架かって下さいました。そして復活して下さり、私共の刑罰である永遠なる死を滅ぼして下さいました。私共には「神の国」(婚宴の席)が用意されたのです。このことは主の恩寵であり、神の恵み「福音」です。私共は、この神の恵みを信じ受け入れ、神の国の住人にされているのです。では私共はただ救いに安穏としてよいのでしょうか。私共にも為すことはあります。その教えが「十人のおとめ」です。「婚宴の席」に入ることができた「賢いおとめ」と入る事が出来なかった「愚かなおとめ」の違いは何だったのでしょうか。どちらも眠りこけてしまっていたような者なのです。その違いは「備え」をしていたかどうかです。では「備え」とは何を意味しているのでしょうか。このたとえは、花婿は「再臨のキリスト」を、おとめは「教会」を表していると言われます。そして、たいまつの火は「聖霊」を表しています。では聖霊の「火」を消さない「備え」とは如何なることなのでしょうか。ここに大阪女学院のエンブレムを用意しました。このエンブレムには学院の理念が込められています。この「十人のおとめ」をモチーフにしたエンブレムは、「学院で学ぶ人たちが、本当に大切なもの(神様)に目を向け、いつどのような時にも、神様の導きに心を開く「心の備え」ができる人になってほしい。」という願いが込められています。終末は「喜びの日」です。いついかなる時も心を神に向け、日々に感謝を捧げ、「備え」をしましょう。