12月19日(日)降誕日礼拝

「聖 書」

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。…その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは神の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。…律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。

(ヨハネによる福音書 1章1~18節)

「イエス・キリストを通して現れた」

皆様、クリスマスおめでとうございます。本日の、この佳き日に「神の愛」について御言葉に深く聴きましょう。本日の御言葉は語ります。(ヨハネ1:17~18)「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた。」「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示された。」恵みと真理とは何でしょうか。主イエスは神の何を示されたのでしょうか。それは豊かな霊の満たしであり、神の愛のことです。14節に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」とあります。「宿る」は(スケーノー)で、以前、お話ししたように「幕屋」(神の臨在)を表す言葉です。主イエスを信じる私共の間に、「幕屋」(主イエス)が宿られているのです。そこには父の独り子としての栄光があり、恵みと真理が満ちています。この豊かな「満たし」(プレローマ)は今も私共キリスト者の中心に主がおられて、今も昔も変わることのない真実です。私共は、この霊の豊かさを日々、味わっている者なのです。主は既に来て下さいました。今は再臨の主を待ち望んでいます。クリスマスを祝う意味は何なのでしょうか。それは「闇」を打ち払う「大いなる光」(愛)の神の栄光を拝し、神の恩寵に感謝を捧げるためです。本日、4本目の蝋燭(愛)に火が灯されました。真ん中にキリストキャンドルも灯されています。希望、平和、喜びと火が灯され、本日は愛です。私共に真実な愛はあるのでしょうか。クリスマスの心は、家族や隣人のことを想い、愛を届け合い、他者の幸せ(愛)の実りを祈る心のことです。私共はキリストの愛に感謝を捧げ、クリスマスの心を持ち、互いに愛を確かめ合い、喜びのクリスマスを過ごしてきたのではないでしょうか。私共は、して差し上げたことは、忘却せず、恩義は忘れやすい者です。本日の御言葉で、洗礼者ヨハネは主イエスを証しし、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」と告白しました。「神の小羊」は(アニュス・デイ)です。過越しの子羊であり、生贄の意(セルフ・サクラファイス=自己犠牲)です。音が(ハグネー)に似ていることから「純潔」も表します。(聖女アグネスの殉教からも関連されます。)この意は「無償の愛」です。神は私共に何かを期待して、救い主を遣わされた訳ではありません。私共の「ありのままの存在」を愛し、慈しまれているのです。私共には真実な愛はありません。しかし、主を信じる私共の間には、神の愛と恵みと真理がイエス・キリストを通して満ち溢れています。ハレルヤ!