12月27日(日)聖日礼拝

「聖 書」

シメオンが〝霊〟に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしのこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」

(ルカによる福音書 2章22~40節)

説 教 「わたしはこの目で」

本日の「主の奉献」の御言葉は、「降誕節第一主日」に読まれるに相応しいものです。基本となる解き明かしは、以前の説教を参照下さい。(09.12.27、14.2.2参照)本日は特に、シメオンの「喜び」について解き明かしを致します。新しいキリスト教暦が始まり、21年は「福音を生きる」と致しますが、その源は何と言っても「福音の喜び」です。本日登場するシメオンとアンナは、主イエスに出会い、その「福音の喜び」を手にしました。その「喜び」は、私共キリスト者の喜びと同じものです。ですから本日の喜びの本質を味わい知る者は、まことの「福音を生きる」ことができるのです。また本日の御言葉は「クリスマスの喜び」を語るものでもあります。本日の御言葉を通して、恵みの信仰の棚卸をして20年を締めくくりましょう。本日の御言葉の中心には「幼子イエス」がおられます。本日の「主の奉献」にて、主イエスが「新しい神殿」になられたことを示しています。御言葉の冒頭で、「彼らの清めの期間が過ぎたとき」と記されていることが、その証拠となります。「彼ら」とルカは語ります。「彼ら」とはマリアであり、幼子イエスのことです。マリアは出産の清め(レビ12章)であり、イエスはナジル人の誓願(民数6章)のことを語っています。「ナジル人の誓願」とは、「神に献身し、神より聖別され、神に属する者となる」ことです。主は、この日「聖別」されました。ですから本日の御言葉は、「主の奉献」と言われるのです。「新しい神殿」となられた主イエス。その主イエスに彼らは出会いました。シメオンとアンナです。彼らは両者とも「イスラエルの慰めを、エルサレムの救いを待ち望んでいた人」です。これはクリスマスを「待ち望む」希望と同じものです。シメオンは、いつものように神殿に入り、「メシア」に出会いました。彼は神を讃え(ユーロゲオー)ました。そして、「今こそ、あなたは去らせて(アポリオー=解放)下さいます。」(ヌンク・ディミティス)と叫んだのです。預言者の務めからの解放です。それにしても何故彼は、多くの幼子を目にしながら、主イエスが「メシア」であることが分かったのでしょうか。これは、キリスト者とされた私共の信仰と同じです。彼は「正しい信仰深い人」でした。これは、「神の言葉を信じ、確信している希望の人」を言い表しています。彼は聖霊の働きにて直感し、主との個人的な出会いを果たし、福音の喜びに満たされたのです。