12月5日(日)聖日礼拝

「聖 書」

皇帝ティベリアスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。

これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。

『主の道を整え、

その道筋をまっすぐにせよ。

山はすべて埋められ、

山と丘はみな低くされる。

曲がった道はまっすぐに、

でこぼこの道は平らになり。

人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」

(ルカによる福音書 3章1~6節)

「神の救いを仰ぎ見る」

待降節第二主日を迎えました。二本目の蝋燭に火が灯りました。「平和」の光です。待降節第二主日は「洗礼者ヨハネ」が読まれます。2018年に同じ御言葉、同じ説教題で説教致しました。同じ題としたのは、「神の救い」について更に深く聴きたいと願ったからです。私共に与えられる「キリストの平和」、「神の救い」とは何かを本日の御言葉を通して深く味わい、私共の信仰の礎と致したいと願います。洗礼者ヨハネの父は祭司ザカリアです。ヨハネが生まれる前に主の天使よりザカリアに「洗礼者ヨハネ」の誕生が告げられました。その告知は、生れる子ヨハネは、「いと高き方の預言者と呼ばれ、主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせる者となる。」というものでした。これはキリストへの「道備え」です。ヨハネが指し示す(別紙参照)キリストは、「高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」(ルカ1:79)とも告げられました。ここで語られる「平和」とは何でしょう。それは「神との関係の回復」であり、「罪の赦し」のことです。これは「神の救い」のことです。この救いは神からの一方的な恵みのことです。私共は「自分の罪」を意識しているでしょうか。神は私共に「キリストの光」を照らし、私共の罪を明にして下さっています。私共を真の悔い改めに導き、「平和の心」を与えるためです。私共の心にあるものは「罪の咎、不安、争い、憎しみ、妬み、差別心、後悔の心、神への背信」です。私共は「荒野」に住んでいるのです。私共は「渇いて」いるのです。洗礼者ヨハネは「荒れ野」にて、神の言葉を聴きました。イザヤ書40章の預言の成就です。本日の御言葉には(イザヤ40:3~5)が引用されています。「荒れ野で叫ぶ声」の主は誰でしょう。神御自身です。神の言葉が荒れ野に響きました。「主の道を整え(ヘトイマゾー)、その道筋をまっすぐにせよ。」この神の言葉は、神によって実現します。「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされ、曲がった道はまっすぐにされ、でこぼこの道は平らになる。」のです。これは私共の心の状態です。この御言葉は神的受動形です。この業は神が「全ての者」にされる恩寵です。私共は「神の言葉」を聴くことを通して、心が平らにされ、キリストへとまっすぐに行くことができる者へと神が変えて下さいます。私共は平和を得、神の救いを仰ぎ見るのです。