12月8日(日)聖日礼拝

「聖 書」

かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。

 だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、異邦人が神をその憐みのゆえにたたえるようになるためです。

(ローマの信徒への手紙 15章4~9節)

説 教 「心を合わせ声をそろえて」

待降節第二主日を迎えました、本日もローマ書を通して、「待降」の御言葉に触れます。本日の御言葉の続きに、「エッサイの根から芽が現れ、」(イザヤ書11章10節)が記されています。「メシア預言」です。パウロ先生は旧約の預言を通して、本日の御言葉で何を語ろうとしているのでしょうか。それは福音はユダヤ人と異邦人のためにあるという真理です。この意味は勿論、福音は全ての人々の為にあるということです。キリストは全ての人々の「希望」なのです。パウロ先生は本日の御言葉の中で、「心を合わせ声をそろえて」と語ります。キリストにありて「一つ思い」になり、「心を合わせる」だけではなく、「声をそろえて」とあります。これはキリストの「福音」を喜び、「神をたたえる」、その時に「賛美」を捧げるの意味です。「すべての民は主を賛美せよ」(詩篇117編1節)の通りです。「声をそろえて」は「斉唱」(ユニゾン)です。神を賛美する時に、自分に栄光を帰する人はいません。神を賛美する時は、全ての者が「声をそろえて」神にのみに集中し、神の栄光を称えて、讃美歌を歌うのです。しかし、讃美歌を歌う時には、声を合わせることが難しい人もあるかも知れません。自然な「混声」になることもあるでしょう。それはそれで良いのです。「声をそろえる」為には、皆の歌声をよく聞かなくてはなりません。隣の人の声に合わせる必要もあるでしょう。これは技術的な話です。パウロ先生の語る「声をそろえて」は「互いの信仰の喜びを聞き取る」の意味です。神に賛美を捧げる時に、皆が神に集中し、「一つ思い」になります。神を称え「賛美」を捧げる時、皆の喜びの「声」が聞こえるのです。神を共に称える「豊かな満たし」の中に自分がいる。その時に、喜びは更に満たされ、皆と共に「声をそろえて」賛美を捧げるのです。このことがパウロ先生の語る意味です。その賛美の中に、ユダヤ人と異邦人の区別はないのです。先週、私は、救いは外にはありませんと語りました。救いは「あなたの内にあります」と語りました。先週紹介した茨木氏とピート・シーガーですが、彼等が外の世界に目を向けている時には「真理の旅人」であったでしょう。しかし「自分」に目を向けた時に、キリストは「すぐそばに」いました。ルオーを発見した茨木氏は、きっと、ルオーの信仰者ゆえの「美しさ」に気づいたでしょう。ルオーは「聖顔」を描き続けて気づきました。「人生の苦悩は愛によって救われる」キリストを着るとは弱さを身に纏うという事です。愛とは真実に知り合い、一つになることです。