5月10日(日)聖日礼拝

「聖 書」

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

(ヨハネによる福音書 14章1~12節)

説 教 「わたしは命である」

本日の御言葉は「ペトロの離反を予告する」と「聖霊を与える約束」の間に挟まれた「イエスは父に至る道」の場面です。ヨハネ書は二部構成になっていて、12章までは「しるし」が語られ、それ以降は「受難」が語られています。その「受難」の場面の14-17章では弟子に向けた「告別説教」となっています。共観福音書には記されていないヨハネ書のみの記事です。つまり本日の御言葉にはヨハネの信仰理解が色濃く語られていると捉えることができます。ヨハネは「告別説教」の冒頭に「イエスは父に至る道」を置きました。真のイエス理解なく、主の十字架の意味を知ることはできないことを「ここで」告げているのです。ヨハネは「イエスは道である」と示しています。そして、「その道」を通る者は「永遠の命」を得ると語っています。先週の説教で「死の谷を過ぎて~クワイ河収容所」の証しをお伝えしましたが、収容所にて過酷な状況下において彼らは何故、「秩序」を保ち、平安であり続けることができたのでしょうか。「奉仕団」を始めたダスティは何故、敵の身代わりとなり、十字架に架かって死ぬことができたのでしょうか。それは彼らには「命」があったからです。キリストの命を身に受けていたからです。ダスティは「キリストの歩まれた道」を自分の道として歩んだのです。ちいろば先生と呼ばれた榎本先生の証しに、敗戦直後の野戦病院のことが語られていました。軍人勅諭を奉じて生きていた日本兵達が、国あっての軍隊、軍隊あっての自分が崩れ、誰しもが不安に襲われ、混乱に陥ったと語っておられます。ペトロ達、弟子達も十字架に出会い、主の死に向き合うならば、同じ状況になることは必至です。自分が絶対だと帰依していたものが喪失する、そのことはアイデンティティの喪失です。人間は須らく、何かに帰依しているのです。それは「信仰」と呼んでいいものです。私達は真の「命」を手にしなくてはなりません。死を前にしても揺るがない「命」を得なくてはならないのです。主は「心を騒がせるな」と励ましを与えられました。心を定めよと呼びかけておられるのです。「クォ・ヴァディス」(1896)の中で、迫害を避けてローマから出ようとするペトロに復活の主が現れ、「あなたが私の民を見捨てるなら、私はローマに行って、今一度十字架に架かる。」と言われました。ペトロは立ち返り殉教の道を行きました。彼は永遠の命を得る道を歩んだのです。