5月24日(日)聖日礼拝

「聖 書」

どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において、御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。

(エフェソの信徒への手紙 1章17~23節)

説 教 「栄光の源である御父」

ペンテコステの前週である本日は、「主の昇天主日」として各教会で礼拝が守られています。伝統的に「主の昇天」の場面の御言葉が読まれますが、本日は「エフェソ書」を通して、御言葉に聴くことに致します。どうしてそれを意図したかと申しますと、エフェソ書には「教会」が記されているからです。教会とは何か?教会の存在意味は?を霊的な啓示を受けながらパウロが認めているからです。ペンテコステは「教会の誕生」と言われています。本日「教会」の本質意味を聞くことは、御言葉を「聴く務め」を為すキリスト者にとって意義のあることです。そして、ペンテコステ主日を迎えるまでの一週間を、どのような心備えをして待ち望むのかを知るということにおいても大切なことです。幾度か語ってきたことですが、教会は建物の事ではありません。教会は私共キリスト者の事です。エクレシアは教会の事です。エクレシアは「神に招かれ、呼び集められた者の群れ」の意味です。18節に記された「聖なる者たち」のことです。教会は、まず「主の選び、招き」があるということが始めであり、最も大切なところであることを知っておく必要があります。主の昇天後、弟子達は聖霊を待ち望み、心を一つにして祈っていました。そこに聖霊が降ったのです。私共の、この一週間の過ごし方も同じです。聖霊を待ち望みつつ、自分の信仰を点検し、神の力が満ちるまで、祈りつつ過ごすのです。自分を神に明け渡し、空の器である魂の中に聖霊をお迎えするのです。聖霊を受ける体験を為すことができた時に、「啓示」を受けることでしょう。パウロと同じく、神の秘められた「計画」を知る者とされるのです。そして、キリスト者であり、教会そのものである自己の使命を知らされるのです。キリスト者の使命とは何か。それは宣教であり、愛の業の実践です。何故、このことがキリスト者の使命なのかと言うと、それはキリスト者が神の「秘められた計画」に参与しているからです。神の「秘められた計画」とは何か。それは、「キリストのもとに、分裂している世界を「一つに」まとめ平和(御国)を完成させる」ことです。ですからキリスト者(教会)は、「全世界全宇宙を包含して「一つに」まとめる神の救いの働きの具現化」そのものであり、キリストの体そのものなのです。このことは、本日の御言葉の「教会」を「私共」に変えて読めば、パウロの伝えたい意図がよく分ることでしょう。