6月20日(日)聖日礼拝

「聖 書」

その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

(マルコによる福音書 4章35~41節)

「枕をして眠っておられた」

本日の御言葉は「突風を静める」です。その冒頭に「その日の夕方に」とあることから、先週の「成長する種」の続きと考えて良いでしょう。この繋がりを受けての解き明かしは以前説教を致しました。(2015.6.21参照)私は、その時に「成長する種」は「教会成長」を表し、「向こう岸に渡ろう」は「異邦人伝道」のことを語っていると申し上げました。そして御言葉の大切な所は「イエスを問う幸い」であると解き明かしをしたのです。私は今回、御言葉の黙想を為している時に、本日の御言葉は、そんな甘いものではないと示されました。主は「成長する種」のたとえを通して、「神への信頼」の大切さを語られました。その続きに、本日の御言葉はあるのです。私共の信仰や、御言葉への聴従は現実世界のものです。私共の信仰は地に足がついたものです。本日の御言葉は実際に弟子たちが経験したものです。本日の御言葉は主と弟子たちの「神への信頼」の対比が示されています。マルコ書は「弟子たちの弱さ」を描く特徴を持っています。しかし以前に語りましたように、「聖霊降臨」を迎えた私共は、復活の主と共に日々歩み、「マルコ書を再読し、体読するように」(荒井献)勧められています。私は、本日の御言葉は主より、「向こう岸に渡ろう」と今を生きる私共に呼びかけ、励まされる主の姿が見えます。私共は「弟子の弱さ」を読むのではなく、主と共に歩む道を読むのです。主は「向こう岸」に渡ろうと言われました。「向こう岸」は、異邦人の地、神なき世界、罪ある世界、自分の力で対処できない場所です。しかし私共は行くことができます。主がおられるからです。主は艫の方で「枕をして眠っておられた」と御言葉は語ります。神への信頼です。主は突風を怖れる弟子達に「まだ信じないのか」と言われました。この「信じる」は御父への信仰を問うています。本日の御言葉は脅しているのではありません。主は私共に見せておられるのです。「私が神である」ということを。舟は教会です。主は艫(先)におられます。主は船長です。教会(信仰者)に、どんな嵐が来ようとも、私共は安全です。神が共におられ、「神の支配(神の国)」の内にいるからです。この「平和」が「神の国」のことです。この豊かな「神の国」の姿を「still」(別紙参照)が見事に歌い上げています。私共に、どんな困難が訪れようとも「静まり」、神が共におられる「神の国」の平安と神を知る幸いを得たいと願います。