6月27日(日)聖日礼拝

「聖 書」

「どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」・・・ 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入っていかれた。そして、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩き出した。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

(マルコによる福音書 5章21~43節)

「そうすれば、生きるでしょう」

本日の御言葉に二つの「癒し物語」が記されています。(12.7.1、15.6.28、18.7.1参照)本日の御言葉は、4~5章の「括り」で読むならば、マルコの意図が、はっきりとします。神の国の「種」は「主との関係」にこそあるということです。そして「神の国」は「永遠の命」「永遠の救い」であるということです。ですから本日の御言葉の二つの「癒し物語」もまた「癒し」ではなく「救い」の物語です。主は「突風を静める」場面で自然に対して、「黙れ、静まれ」と言われました。風はやみました。主は神の力を持っておられます。主が神であるからです。主は4~5章において、全てを従わす「神の姿」を現されました。嵐(自然)を従わせ、悪霊(支配)を従わせ、病気(苦悩)を従わせ、死(いのち)を従わせました。マルコ書を体読する私共も又、主が共におられる時に、主と同じことを為す「聖霊の働き」を得ることができます。これは、私共が「神」になるという「不遜」なことではありません。主を信頼して生きる私共も、「主の御旨」を生きるようになるという意味です。「主の御旨」とは、神に救いを求める者に「永遠の命」を与えることです。「永遠の命」を与える方は神です。私共は神の国に住み、神の国を「指し示す」のです。ですから私共キリスト者は「神の国」とは如何なることかを、よく知っている者でなくてはなりません。丁度、本日の御言葉は、その意味を詳しく伝えています。マルコは「神の国」を具体に伝えるために、4~5章を意図して文章構成しました。「長血の女の物語」の挟み込みも意図されたものです。主は「向こう岸」から、再び、帰って来られました。そこには主を理解できない群衆と共に、「神への信頼を持つ者(神にすがる者)」もいました。会堂長ヤイロです。彼は富裕の者でありながら、主の足もとに「ひれ伏し」ました。「私の幼い娘が死にそうです。どうか手をおいてやってください。そうすれば、娘は助かり(ソーゾー)、生きる(ゾーエー)でしょう。」彼は主に「癒し」(イアオマイ)を求めたのではなく、「救い」(ソーゾー)を求めたのです。このことは「長血の女」も同じです。彼女は「いやして(ソーゾー)いただける」と主にすがったのです。主は「神への信頼」に応えて、癒しと共に、「救い」(神との関係)を与えられ、苦悩からの解放を与えられました。ヤイロの娘の蘇生も復活の出来事です。彼らは「神の国の住人とされる幸い(救い)」を得たのです。