7月11日(日)聖日礼拝

「聖 書」

そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

(マ

「汚れた霊に対する権能」

本日の御言葉は十二使徒の働きの場面です。十二使徒については、別紙を参照下さい。マルコ書3章において、主イエスが、十二使徒を任命された場面が記されています。その目的は、「自分のそばに置くため」「派遣して宣教させるため」「悪霊を追い出す権能を持たせるため」であったと記しています。私は弟子たちの働きの場面を読むたびに、「私にはできるのか、私には無理だ」と思う自分がいました。サタンの思うつぼに、嵌っていたのです。「宣教」は勿論「私」にはできません、「宣教」は「神御自身」の業なのです。キリスト者である私共は「神の権威(愛)」を託され、「神の国」を広げゆく務めに派遣される者とされているという自覚を持つことは大切なことです。因みに「使徒」は(アポストロス)で「遣わされた者」の意であり、この言葉に対応するヘブライ語の(シャリアハ)は「神の代理者」という意味です。キリスト者の全ての者に、この「派遣」のいのちは与えられています。どうすれば私共は忠実に働くことができるのでしょうか。(私共は万人祭司なのです。)先週に紹介した水野さんは「キリストを知るためだとわかりました」の詩の中で歌っています。「病に倒れたその時には涙流して悲しんだが霊の病いやしたもう」この詩に出会ったキリスト者は励ましを受けました。水野さんは一信徒です。病を癒されても救われずにいることはあり、病を癒されなくても救われることはあると、私は先週に語りました。病を通してのキリストの出会いは「霊の病のいやし」です。本日の十二使徒は杖(神御自身)だけを頼りに、「何も待たず」に出かけ、「悔い改めさせるために宣教」しました。「悔い改め」は(メタノイア)で、「神に向きを変える(神に立ち帰る)」のことです。彼らは目的を果たしていきました。「悪霊を追い出し、多くの病人をいやした」のです。この意味「いやし」は(セラペイア)で、「全人格的ないやし(霊の病のいやし)」を表しています。弟子たちは何故、目的を果たすことができたのでしょう。それは彼らが「名もない力もない、ただ主に頼る者」であったからです。(一コリント1:26)主イエスの周りに「神にすがる者」が生まれ、「主を信じる者」が生まれ、「主に従う者」が出てきました。神の国は到来しました。今は、神の国を主に従う者が広げゆく時です。弟子に託された道を「先に」主が歩まれました。その主が共におられます。神の御国を共に参りましょう。

ルコによる福音書 6章7~13節)