7月14日(日)聖日礼拝

「聖 書」

あなたが、あなたの神、主の御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽して、あなたの神、主に立ち帰るからである。

わたしが今日、あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。それは天にあるものではないから、「誰かが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。海のかなたにあるものでもないから、「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたあの口と心にあるのだから、それを行うことができる。

(申命記 30章10~14節)

説 教 「主に立ち帰る」

本日の御言葉は、まことの神信仰をする者にとって、慰めに満ちたものであると思う者は私だけではないであろう。神を信じる者であっても、長い人生には困難や窮乏は訪れるものである。「その時」信仰者は、信仰に迷いが生じたり、神不在を感じたりすることがあるのではないか。しかし、そのような時であっても「御言葉」は信仰者の「近くにある」と本日の聖書は語っているのである。先週に紹介した曽野綾子著の「生活のただ中の神」に登場する夫が漁師で四人の子持ちであった妻の話。妻は未亡人となり、苦労して四人の子を成人させる。しかし甘やかして育てた末の子が人身事故を起こした。示談金を払うことと、母の誠意ある態度が被害者の心に重大なしこりを残す事にだけはならなかったという話のことである。この母は、全財産を吐き出し、誠意を見せた。母は、経済的にもふり出しに戻って、老後を保障するものはなくなった。この話を聞いた曽野は、「まさに「求める時、失う時」(コヘレトの言葉)を彼女は生きたのである。」と著書に記した。何とひどい言葉かと思うのは早計である。彼女は被害者の心の慰めとなり、愛する息子をも救うことになったからである。神は彼女を守られたのである。曽野は、この章の中で「自分の身に起こったことを引き受ける」と語っている。そして、その意味を神の母マリアの受胎告知の時に出された言葉、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」につなげて語っているのである。私達の人生にも理不尽なことや不条理なことは起こる。そればかりか自らが犯してしまう過ちにより、取り返しのつかないことをしてしまうこともある。しかし、そのような時にも「御言葉」は私達の「近く」にあるのだ。そのことはイエス御自身が証明され、今も証明をし続けていて下さる。主は律法(聖書)を生きられた。自らを「律法を完成させるために来た」と言われた。主は律法の完成者であり、成就者なのである。本日の御言葉は今も信仰者に命を与える真理である。主の歩まれた道は今も私達の歩む道を照らしている。本日の御言葉は「それを行うことができる」と語っている。「それ」とは律法のことであり、「行い」は「神を愛し、人を愛する」ということである。私達は律法を生きることができるのである。神と人を愛する人生を生きることができるのである。それができるのは、「主に立ち帰る」からである。主は自分に立ち帰り、律法を生きるものに「祝福」を与えられる。主は信仰者の繁栄と豊かな恵みを喜びとされる神なのである。