7月18日(日)聖日礼拝

「聖 書」

しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律づくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。

(エフェソの信徒への手紙  2章13~18節)

「敵意を滅ぼす」

先週の御言葉は、福音を告げ広める「弟子たちの派遣」がテーマでした。弟子たちが派遣の成果を得たのは「主への信頼」があったからです。彼ら自身は「小さな者」でした。しかし彼らは「小さく弱い者」であったので、主に従う信仰のゆえに成果を得たのです。主は弟子たちに「汚れた霊に対する権能」を授けられました。これは「神の権能」ですが、弟子たち側に立てば「愛の委託」です。「悪霊を追い出す権能」(ママルコ3:15)は神の権威ですが、その力に満たされる者は「イエスの愛」を持つ者です。この権能は力であり、愛なのです。この意味については、本日の御言葉が具体的に語っています。本日の御言葉のテーマは、「死から命へ」(2章)の中に組みされるものです。私共の全ては「世(悪魔)の奴隷」であり、「死すべき者」です。しかし神はキリストを世に送られ、キリストを信じる者は死が滅び、永遠の命を得ることができる道を用意されました。この神の愛は、方程式ではありません。見えないものを信じる心です。目に見えない愛の「相互関係」なのです。私は自分が悪魔の奴隷である自覚がない者でした。私は罪人であるという自覚はありました。しかし、自分を救う手立てを持っていなかったのです。そんな私を主は救われました。十字架の贖いを、私の罪の十字架として、主は「神の愛」をはっきりと見させて下さったのです。私は今までの神の愛、恩師の愛、家族の愛に気づく者へと変えられました。本日の御言葉は語っています。「キリストは十字架によって敵意を滅ぼされました。」十字架は神の愛です。人は愛によってでしか生まれ変わることはできません。人間の悩みの90%以上は、人間関係であると言われています。これは「敵意」です。不信、疑心です。これを打ち破ることができるものは「まことの愛」十字架しかありません。この愛に救われたキリスト者は神の救いの計画に入れられ、「神が前もって準備してくださった「善い業」(神の御心に生き、神の栄光を現すこと)のために、キリスト・イエスにおいて(神の作品として)造られた」(2:10)いのちに生きる者とされます。これは「愛の証し人」となるということです。この命を具体的に生きた人にコルベ神父(別紙参照)がいます。コルベ神父はアウシュビッツで語りました。「愛がない世界ならば、愛をつくらねば」十字架の愛に動かされる者が、敵意を滅ぼし、悪霊を追い出し、まことの天の国を造り出すのです。