7月21日(日)聖日礼拝

「聖 書」

一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

(ルカによる福音書 10章38~42節)

説 教 「必要なことは一つだけ」

有名な「マルタとマリア」の御言葉です。この御言葉が、余りにも身近な生活の一場面であるので、誰しもが自分の側に引き寄せて、御言葉を解釈しがちになります。しかし深い真理を示されるまで、祈りながら御言葉を読み、御声が聴こえるのを待つことは、どの御言葉も同じです。本日の御言葉を読むときに、私は「マルタ派」か「マリア派」かと考えることがあるでしょう。しかしそれは思い違いです。以前の説教で語った如く、誰しもがマルタとマリアの両面を持ち合わせています。(2013.7.21参照)では私達は本日の御言葉から何を聴くのでしょうか。それは「あなたにとって必要なことは一つだけ」であるという真理です。色々な思い煩いから解き放たれて、「イエス様の処に来る」ことが必要なことなのです。本日の御言葉は処世術や人間関係を学ぶところではありません。マルタは、いろいろのもてなしのため「せわしく立ち働いていた」と御言葉は語ります。この言葉は「ペリスパオー」で「あるべき中心から引き離され、周囲の雑事に心が散り散りになった状態」の意味です。マルタの行為は正しいものです。非難されるものではありません。ただ心が「中心から離れて」いたのです。ですからマルタに対するイエス様の応答は、マルタを救いに導く「御声」でありました。本日の御言葉の主人公はマルタなのです。マルタが、中心であるイエス様の処へ帰ることができたということが本旨なのです。私共は、この大切さを聴く者でなくてはなりません。私は先日、懐かしい方の説教を聞きました。ポール・リース先生です。思いがけない所からCDが出てきたのです。ヨハネの黙示録の「あなたは初めのころの愛から離れてしまった」の解き明かしでした。素晴らしい説教でしたが、本日の御言葉と通底しています。主はマルタに諭しを与えるだけではなく、救いを与えられました。主はマルタに「マリアは良い方を選んだ」と言われました。そして「それを取り上げてはならない」とも言われたのです。取り上げてはならないものは何でしょうか。イエス様の話を聞くことでしょうか。それともイエス様の処(人の魂の中心)へ行くことでしょうか。これは勿論、イエス様の処へ行くことです。この所を見事に表現した絵画があります。フェルメールの「マリアとマルタの家のキリスト」です。イエス様だけ「影がなく」マルタとイエス様の真ん中に白いテーブルが光っています。マルタの救いを表しているかのようです。本日の御言葉は、マルタがイエス様を迎えたから始まっています。これが答えだったのです。