7月26日(日)聖日礼拝

「聖 書」

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするであろう。

(マタイによる福音書 13章44~52節)

説 教 「天の国」

本日の御言葉は「種を蒔く人のたとえ」の結びの部分です。主イエスは、「種を蒔く人のたとえ」を通して、弟子たちに「天の国の秘密」を解こうとされています。私達も共に「たとえの結び」を通して、同じ恵みに与りましょう。にしても、本日の御言葉には「たとえ」の説明がありません。「なぞ」は解くことができるのでしょうか。説明が無い以上、自由な解釈が可能です。しかし「御言葉」は「神の言葉」ですから、勝手な読み方は許されません。ある先生は、「宝」は「イスラエル」、「真珠」は「教会」と読み解かれます。見つけた人は「主イエス」であると解釈されています。この「解き明かし」には深い学びを感じます。しかし、この「たとえ」の結びとしては如何なものかと思わされます。主イエスは弟子たちに「天の国の秘密」を解こうとされているのです。であるならば、やはり「たとえ」の結びとしては、「天の国に入る」(福音=救い)素晴らしさを、弟子たちに伝えていると解することが自然です。その解釈に立つならば、「天の国」は、「隠されている」「探さなければならない」、「選り分けられる」ものであり、見つける(キリストを信じることを通して悟る)ことができたならば、己のすべてを捨てても惜しくはない「宝」であることが理解できるということです。主は宣教に遣わす弟子たちに、あなたたちが伝える「福音」は救いであり、天の国に入るということであり、天の国は並ぶものがない「宝」であることを悟りなさいとここで語っておられるのです。弟子たちは「分かりました」と答えましたが、私達はどうでしょうか。天の国が「宝」であることを心から理解しているでしょうか。パウロ先生は「私は第三の天に行った」と述べられています。先週も申しましたが、天の国は、今私達が妙味を味わう事が出来るものです。主イエスは宣教の初めに、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)と宣べられました。主は徹頭徹尾、「御国(天の国)」のことだけを人々に広く伝えておられます。(ヨハネの強調点とは異にしています。)私共にも主は奨めておられるのです。あなたがたも「天の国」(宝)を見つけ出しなさい。手にしなさいと。「天の国」と「神の国」は同義です。「御国」も同じです。主は「御国が来ますように」と祈りなさいと教えられました。「御国」は悪の廃された「神の支配」(愛の交わり)が完成された喜びの国のことです。