7月28日(日)聖日礼拝

「聖 書」

洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けして取り除いてくださいました。

(コロサイの信徒への手紙 2章12~14節)

説 教 「キリストと共に」

教会には二つの危機があると言われます。一つは内面の危機です。キリスト者となり、喜びのうちに教会に仕えていく中で、教会の奉仕が義務化されていくことです。教会の業が自分を誇る「自己義認」にすり替わってしまうことです。このことは先週の「マルタとマリア」の御言葉を思い出していただければ理解して頂けるでしょう。もう一つの危機は本日の御言葉です。外面の危機です。コロサイの教会は危機に瀕していました。教会の中に偽教師が入り込んだのです。パウロの同労者であったエパフラスから、幽閉先のパウロのもとに手紙が送られ、パウロにも、この危機的状況が伝えられました。パウロは早速手紙を書きました。この書簡です。本書簡を要約して語るならば、「キリストは神性が充満しているお方であり、全宇宙を支配しておられる。キリストに従う者は他宗教の教えに惑わされてはならない。」ということです。偽教師が惑わしていたことは、「ストイケイア」です。「世を支配する霊」のことです。キリストの福音に、キリスト以外のもので「完全」を満たそうとする教えです。パウロは「キリスト」こそが「完全」であり、加えることも引くことも必要ではないと教えました。これは福音の神髄です。この知恵と確信は「キリストと共に」歩む中で得られるものです。パウロは常に「キリストと共に」あり、福音の核ともいえるものを的確にコロサイの人々に伝えることができました。今の私達にも繋がる勧告です。この福音は世に二つとないものです。「キリストと共に」も「同行二人」の意味ではありません。お遍路をする時に持つ金剛杖は弘法大師の化身と言われます。ですから、お遍路の旅が一人であっても「同行二人」と言われるのです。この「同行二人」は弘法大師の化身が外にあり、自分と共に歩むのです。ですから遍路の厳しさは、当然、自分一人が乗り越えるのです。これは仏教の「自力本願」の意味でも正しい在り方です。私共の「キリストと共に」あるは、この考え方とは異にします。「キリストと共に」は私共の心の中にキリストを迎えることが初めに想定されています。私共の心は自分が中心ではありません。自分は洗礼とともに死に、今、私の心の中に生きておられるのは「キリスト」です。私共のいのちは「新生のいのち」を生きています。御国の実現のために働いています。ただただ「御国が来ますように」と祈っています。このいのちは罪の中に死んでいた私達が、十字架の恵みによって贖われ、キリストと共に「同行一人」となり、歩んでいく人生のことなのです。感謝。