7月4日(日)聖日礼拝

「聖 書」

思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えらました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしに内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。

(コリントの信徒への手紙 12章7~10節)

 「自分の弱さを誇る」

パウロ先生は、主から示された「啓示」の素晴らしさゆえに、自分のことは誇るまい、自分の弱さを誇ると証しされています。本日は、この御言葉の意味について解き明かしを致します。キリスト者は天国の幸いを持つ者です。キリスト者としての年月は、啓示が与えられ、恵みと幸いを受けて、「神の御旨」を生きる人生です。では、その恵みとは具体的には如何なることでしょうか。それはイエス(神は救い)を知る者です。インマヌエル(神は我々と共におられる)を知っている者です。これは先週の御言葉に登場したヤイロや長血の女の信仰を思い出して頂ければ理解できるでしょう。キリスト者の「証し」が自らを誇るものであるならば、それは「証し」と言うことはできません。「証し」はキリストの恵みを語るものです。パウロ先生は、その恵みを「キリストの力が内に宿る」と証しされています。神は全ての者に救いを用意されています。私共は、ただ主にすがるのみです。しかし、この恵みは、我が身に「とげ(サタンの使い)」がある故に、神に敵対するものでもあります。この意味はマルコ書5章に記された「悪霊に取りつかれた人」の状態を見れば分かります。私共は悪霊につかれ、自由、希望、愛、信頼、信仰を失っている者です。私共は、そのような者でありながら、自分を誤魔化して「虚飾を誇る」のです。神を離れ、神に敵対し、神にすがることをしません。また神の恵みを見ても、5章に登場する群衆のように、神に立ち帰ることをしません。この人の姿が「罪」であり、「死」です。この死の状態から救う為に、キリストは世に来られました。まず、主は宣教の業の始めに「悪霊追放」をおかれたのは、この意味からです。私は以前の説教で星野さんのことを語りました。(2015.7.5参照)今回は複数の方を語ります。まず榎本牧師の本に証しされている姉妹です。彼女は介護に疲れた時に、「神様、神様」と主にすがります。その時、主は祈りに必ず応えて下さいます。彼女は「神様は本当に私を愛して下さっているのです。」と証しをされました。もう一人の方は水野源三さんです。(別紙)彼は全身麻痺を患いながら「瞬きの詩人」として活躍しました。彼の書いた詩は多くのキリスト者を励ましました。彼は「弱さ」の故に「キリストを知る者」となったと証しし、「とげ」ゆえにキリストの素晴らしさを知り、喜びと感謝を歌いました。弱さの中にキリストの栄光は輝いているのです。