7月7日(日)聖日礼拝

「聖 書」

しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐みがあるように。

(ガラテヤの信徒への手紙 6章14~18節)

説 教 「新しく創造される」

ガラテヤの教会で、異邦人キリスト者に対し、割礼など律法順守の義務を要求するユダヤ主義者の動きがあった。パウロは教会の中を扇動し混乱させる論敵に対して、「福音の神髄」を説くことによって、教会の原点に立ち返らせる為に書簡を送った。その最後の言葉が本日の御言葉である。パウロの言いたい事を一言で語るならば、「大切なのは、新しく創造されることです」に尽きます。パウロは自己の「回心体験」を語りつつ、「信仰義認」の真理を語りました。そして論敵に対しては、あなたがたはキリストを誇るのではなく、自分自身(肉)を誇っていると批判したのです。私達はどうでしょうか。キリストの福音にのみ依拠しているでしょうか。「キリストのみ」はプロテスタント教会の是です。パウロの最も語りたいことは、福音は、あなたがたにキリストの焼き印をつけるということです。福音の神髄を生きる者は、キリストの奴隷となるのです。「我もなく世もなくキリストのみいませば」の命を生きるようになるということです。その語りたいことを別の言葉で語るなら、「新しく創造される」と言うことなのです。私達は「神の恵み」にて救いを賜りました。その救いの恵みを自分の行いや信仰の強弱で完成させてはならないのです。いや、救いの完成など自分の力で為せる類のものではありません。それほど、私達の霊的な救いは「神秘」なのです。パウロは、「割礼の有無(自己義認)は問題ではなく、

大切なのは、新しく創造されること」であると語りました。ではそもそも私達には「新しく創造されること」は必要なことなのでしょうか。また必要であるならば、「新しく創造される」とは如何なることなのでしょうか。そのことを具体的に語るものがあります。それは、曽野綾子著「生活のただ中の神」に登場するアフリカの少年です。曽野はアフリカですべてを失った「何も持たない」少年が独り、朝日に向かい、じっと身動きしない姿を見ます。曽野は彼の姿に「神に近づく方法」を見出すのです。私達は自分を救う「何か」を持っている限り、神に出会うことはありません。何も持たず、希望もなく、万策尽きた時、人は天を仰ぎ、「まことの神」に出会うのです。その「まことの神との出会い」こそ、「新しく創造される」ことです。では「新しく創造された者」は如何様になるのでしょうか。それは、「霊の導きに従って歩む」(5:16)ようになります。そして、霊の結ぶ実である「愛」を生きるようになるのです。その実は喜び、平和、寛容などです。私共も又「新しく創造される」日々を生きます。