8月1日(日)聖日礼拝

「聖 書」

イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」

(ヨハネによる福音書 6章24~35節)

「わたしが命のパン」

本日は先週の続きの後半となります。2週に亘り、「イエスは命のパン」について御言葉に聴いています。ヨハネ書6章は、その全体を通して「命の

パン」について語っています。その全体を悟る為に、本日の御言葉は特に大切な箇所です。主は群衆に捜し求められ、懇願されます。主との問答の後、群衆は「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください。」と主に懇願しました。主の答えは「わたしが命のパンである」でした。この「わたしが~である」は(エゴー・エイミー)です。前節の嵐の中で、弟子たちに声を掛けられた「わたしだ」と同じです。主が神御自身であり、神である「しるし」が(エゴー・エイミー)です。しかし群衆の求めていたものは「満腹」(コルタゾー)でした。以前お語りした如くに、6章では主イエスと群衆、ユダヤ人、弟子たちとの乖離や「つまずき」も描かれています。私共は正しく「命のパン」に出会いたいのです。私共は「命のパン」の主と如何様にすれば正しく出会う事ができるのでしょうか。それは「五千人の供食」の少年のようになれば良いのです。私共が「少年」になれば、命のパンは頂けるのです。主イエスは「自分に都合の良い王」を求める群衆に向かい、「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」と言われました。言われた群衆は「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか。」と答えました。自分の力で「神の業」を行うために、自分は何をしたらよいでしょうかと言っているのです。これは人の罪の姿であり、傲慢な心です。この姿は弟子の姿でもありました。フィリポは主に「二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えました。アンデレは「(少年のパンは)こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」と答えたのです。それに対して、少年(パイダリオン:最も小さい者)が差し出した「小さいもの(大麦パン)」を主は用いられ、感謝して裂かれ、人々に「欲しいだけ」「分け与えられた」のです。人々は皆、「満腹」(プレローマ:霊的満たし)しました。これが「命のパン」の意味です。私共が主イエスを信じることが「神の業」です。その主に「感謝をもって、この体を生きた聖なる供え物」(ローマ12:1)として捧げることが「満たし」に生きる秘密です。弟子も又、自分の「小ささ」に気づき、主を信じ、主に委ね、自分を捧げた時に「霊の満たし」に生きることになりました。命のパンは今もあり続けます。