8月11日(日)聖日礼拝

「聖 書」

 

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。

 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。

 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。

(ヘブライの信徒への手紙 11章1~12節)

説 教 「信仰によって」

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」本日の御言葉はキリスト者にとって馴染みのある耳慣れたものです。しかし、その真意には深いものがあり、なかなかに難解な御言葉でもあります。信仰は「神からの賜物」(エペソ2:9)です。にも拘わらずに、本日の御言葉は語ります。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。」(11:6)信仰とは神からのギフトなのでしょうか。それとも自分の賜物なのでしょうか。この事は勿論、何度もお語りしてきた如くに、信仰は「神からの賜物」です。本日の御言葉の真意を聴くことに致しましょう。「信仰とは何か」とか、「キリスト教とは何か」という基礎的な知的な部分は随分と丁寧にお語りしてきました。それらの知的な部分を正しく知ることは、大切な事柄です。しかし信仰者として生きる私共は「信仰の深み」を目指していかなくてはなりません。また信仰の本質を知る者へと変わっていかなくてはならないのです。その本質を知る為に、御言葉に聴きましょう。「義人は信仰によって生きる。」(ローマ1:17)「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。」(ヘブル11:6)「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。」(エペソ2:8)如何でしょうか。「信仰の深み」が伝わるでしょうか。分かりにくいと言う方の為に、例を挙げて語りましょう。丁度、本日の御言葉が具体的な信仰者の名前を挙げて語られていることに倣います。アブラハムは「信仰の父」と呼ばれます。どうしてでしょうか。それは信仰の大きな業を為したからでしょうか。今で言うなら「大きな教会」を建て上げたという「業」の持ち主であったからでしょうか。それは決してそうではありません。アブラハムは、ある時期から経済的に豊かになります。それは、エジプトの王から富を与えられた事によります。それは彼が信仰から逸脱した結果、王から与えられたものです。彼にとっては失敗の遺産でした。この結果、甥のロトとの争いが起こり、別れを生む原因になりました。ですから、彼の富は成功談ではないのです。彼のその後の人生は、悉く「彼が自分で何かをしたときは全て失敗」しています。では彼は何故、「信仰の父」なのでしょうか。それは「望んでいる事柄」を確信していたからです。「望んでいる事柄」とは自分の願望ではありません。神から与えられた「約束」(御旨)のことです。「目に見えない事実」のことです。私共は神の御言葉に聴き、その御声(御旨)を生きることを「信仰によって」歩むことを神に求められている民なのです。