8月18日(日)聖日礼拝

「聖 書」

こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自分の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。

 あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。

(ヘブライの信徒への手紙 12章1~4節)

説 教 「喜びを捨て」

本日の短い御言葉には「信仰の奥義」が語られています。先週の御言葉に聴きました如くに、私共キリスト者には、多くの信仰の先達がおられます。私共は何を先達から学べば良いのでしょうか。本日の御言葉は語ります。「主イエスの信仰に倣え」と。「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」(12:2)と記されてある通りです。求道者が教会に来るのは何故でしょうか。それは、そこに「まことの神」がおられるからです。「まことの信仰」を見ることができるからです。前章に記されてあった信仰の偉人達は「信仰のゆえ」に神に認められました。今を生きる私共も又、信仰の「証し人」として生きています。私共も「信仰の深み」を目指してまいります。さて私共の模範であるイエス様は、どのように信仰に生きたのでしょうか。本日の御言葉を御覧下さい。「このイエスは、御自分の前にある喜びを捨て、十字架の死を耐え忍んだ。」(12:2)とあります。以前の口語訳では、「喜びのゆえに」でした。岩波訳も同じですが、(註)に「喜びという代償があったので」とあります。イエス様は「喜びを捨て」たのでしょうか。「喜びがある」ので十字架を耐え忍べたのでしょうか。そもそも、イエス様の「喜び」とは何なのでしょうか。御言葉を読み解く為には「原語」に当たらなくてはなりません。牧師の務めの中に釈義があります。本文批評から始め、翻訳作業に入ります。この「翻訳」には基礎的な知識と共に「信仰理解」が求められます。例えば洗礼者ヨハネの言葉を、原語に忠実に訳すと、「主の道を(直ちに)(不定過去:アオリスト)備えよ。主の歩まれる道を真っ直ぐに(し続け)(現在形)よ。」となります。では本日の御言葉ではどうでしょうか。「(そこに)ある」という言葉は、「現能欠属女単」です。これを直訳するならば、「(そこに)彼の喜びが(あり続ける)ので、(その喜びを捨て)十字架の死を耐え忍んだ。」となります。イエス様の喜びとは何でしょうか。それは勿論、「神との交わり」です。イエス様は常に神と「喜びの交わり」を為していました。イエス様には神との深い繋がり(愛の絆)があったからこそ、神を最後まで信頼し続けました。神は神の計画である贖いの死をイエスに命じられます。その命令とは、「神から捨てられる」ことです。これは私共が受けるべき「刑罰」です。それを代わりに主が御心として受けて下さったのです。イエス様は「罪と戦い」血を流されました。それでもなお「喜びのゆえ」に御心を行かれたのです。主は私共の「信仰の模範」であられます。