8月25日(日)聖日礼拝

「聖 書」

肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。

 だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。

(ヘブライ人への手紙 12章5~13節)

説 教 「平和に満ちた実」

信仰には、よく「試練」が伴うということは自他と共に認めるところである。では「信仰の試練」とは何の事であろうか。本日の御言葉は、それを「鍛錬」と語っている。「あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。」(7節)原文には「これは」は記されていないが、「これは」とは4節の「罪との戦い」のことであろう。このことは後節に記された「後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」(11節)にも符合する。本日は「鍛錬」と「平和に満ちた実」について御言葉に聴くことに致します。さて信仰者には何故「鍛錬」が必要なのであろうか。それは父なる神が私共を「子」として扱って下さるからである。(箴言3章11.12節)キリスト者は天の故郷を目指して歩む民である。しかし「天の故郷」は義なる神の住む場所である。ならば罪に塗れた者は、そこに住むことは苦痛であることこのうえない。であるから信仰者には「鍛錬」が必要なのである。それは天国の住人としての資質である「神の神聖」にあずかせることが目的である。私共は「神の神聖」にあずかるために「まっすぐな道」を歩み続ける者である。この「まっすぐな道」については以前の説教でも語った如くに、「まっすぐな轍を造りなさい。」の意味である。私共キリスト者は天国の住人の特権として、父なる神より「子」としての「鍛錬」(罪との戦い)を与えられる。この戦いにより、私共は主を見上げつつ歩む中で、罪との勝利の足跡である「まっすぐな轍」ができるのである。この道は「自分の足」で歩むしかない道である。この「まっすぐな轍」には後に続く「キリスト者」も歩む道となる。であるからこそ私共は、この道を心して歩んでいかなくてはならない。本日の御言葉を具体的な「証し」を通して、その意味を知ろう。私共の師であるバックストン先生の祖父は奴隷解放運動の英国の有名な政治家であった。その肖像は英国新5ポンド紙幣にも採用されたほどの人物である。彼は幼少の頃は我の強い悪童であった。その悪童をひとかどの人物に育てたのは、彼の母であった。母は注意深く息子の意志力を鍛え、誠実さや道徳心という美徳を愛を持って粘り強く育てたのである。彼は成人となり、母譲りの「美徳」の道を歩んだ。「轍」ができたのである。孫であるバックストン先生も、その「轍」を歩まれた。勿論、その道には「平和に満ちた実」も実った。この実はアメージング・グレースの作詞者で祖父バックストンとも関わるジョン・ニュートンが語る「喜びと平和の命」のことである。