8月29日(日)聖日礼拝

「聖 書」

だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。

御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。

(ヤコブの手紙  1章17~22節)

イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」

(マルコによる福音書 7章1~8節)

「あなたがたの魂を救う」

本日の御言葉は、「この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」と記しています。慰めの言葉であり、真実です。しかし人は、自分は救いの必要な人間であるとは思っていないのではないでしょうか。それが人間の現実の姿です。しかし時に人は解決できない問題に直面し、誰かに救いを求める。これもまた人間の現実の姿です。本日は聖書が語る救いを知り、「魂の救い」について悟りを得ます。さて、本日は一つのトラクトを用意しました。拉致被害者の会の横田早紀江さんの「私たちはいつも覚えられている」です。(全文通読)横田さんは娘さんを毎日捜し回りました。後に娘さんは北朝鮮に拉致されたことを知りました。その行方が分からず捜し続けている時に聖書に出会い、受洗に至りました。横田さんは娘の行方が分からない苦悩の中で、「ヨブ記」に出会います。義人ヨブが苦難に遭遇し、それでもなお神に目を向け、苦難の時を通り抜ける。どんな苦難の中でも、神に信頼するヨブの姿に、横田さんは、いいようもない感動を覚えたそうです。これが「魂の救い」です。横田さんは、更に聖書を読み続けました。「さらに読み進んでいくと、聖書の一つ一つのことばは私のたましいに、痛みとともに心地よくしみました。人を超えた深く大いなるもの、真実の神の存在を感じたのです。」横田さんの証しです。横田さんは、ほんとうに久しぶりに深呼吸ができたそうです。先週、イエス様の弟子たちに対して、「あなたがたも離れていきたいか。」の呼びかけに、ペトロは「あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」と答えました。ペトロは何を信じ、何を知ったのでしょうか。ペトロは主イエスをメシア(キリスト)「救い主」と信じたのです。ペトロは神が「救い主」であり、人(自分)は罪人(神の救いが必要な者)であることを知ったのです。信仰は霊の賜物です。本日のヤコブ書は「魂の救い」を語っています。私共が何も変わらなくても、御言葉御自身であるキリストを受け入れる時、神は贈り物(信仰)と賜物(霊)を下さいます。私共は魂の救いを得て「新生」をします。この命は「初穂」です。私共の命を「聖なる供え物」として捧げ、御言葉を行う(キリストと共に歩む)者となるのです。本日のマルコ書は偽善が語られ、「神なし」信仰のわざわいが語られています。私共は神の掟(愛)に生き、神の幸いを選び、キリスト者としての命を全うするのです。