9月1日(日)聖日礼拝

「聖 書」

主は不遜な者を嘲り、へりくだる人に恵みを賜る。

(箴言 3章34節)

子よ、何事をなすにも柔和であれ、そうすれば、施しをする人にもまして愛される。偉くなればなるほど、自らへりくだれ。そうすれば、主は喜んで受け入れてくださる。身分の高い人や著名な人は多い。しかし、神の奥義は柔和な人に現される。主の威光は壮大。主はへりくだる人によってあがめられる。お前の力に余ることを理解しようとするな。また、手に負えないことを探求しようとするな。お前のために定められていること、それを熟慮せよ。お前に示されていないことを知る必要はない。できないことに手を出すな。お前に示されたことは、既に人間の理解を超えたものなのだから。

(シラ書3章17~29節)

説 教 「へりくだる人」

本日も「信仰の奥義」の続きです。このところ何回かに亘り、「信仰の深化」を目指して御言葉の解き明かしをしてまいりました。しかし、そのことはただ「知識」を増すことが目的ではありません。「信仰の奥義」を知り、自らの罪と不信仰が知らされ、いよいよ悔い改めの心を持って、神に立ち帰り、救いの喜びに満たされることが、その目的です。「ゴスペル」は福音です。「喜び」の讃美です。その「喜び」とは如何なることか。本日は「信仰の喜び」について、御言葉に聴いてまいりましょう。さて本日の説教題は「へりくだる人」です。聖書が語る最も「へりくだる人」は主イエスです。主イエスは「へりくだる人」であり、「喜びの人」でした。というよりも、神に対して「へりくだる人」であったので、「喜びの人」であったのです。主イエスは私共の模範です。主に倣い、私共も「へりくだる人」となり、魂の喜びを得たいと願います。主は、「まことのぶどうの木」の譬話の中で、「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」と弟子達に言われました。如何でしょうか。主イエスの喜びを自分も得たいと願われるでしょう。主イエスは、その手立ても教えて下さいました。「わたしにつながっていなさい。」「わたしの愛にとどまりなさい。」この二つが喜びの手立てです。具体的な御言葉が、もう一つあります。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11章)有名な御言葉ですが、謙遜な者が自らを謙遜な者と言うのかという疑問を持たれる方もあるかもしれません。しかし、これは本日の御言葉に記された「信仰の奥義」である「へりくだり」をより良く伝えた言い方です。主イエスは神に対する「へりくだり」と「安らぎ(喜び)」の関係をよく知っておられました。ギリシャ語で記された「貧しい」「柔和」「謙遜」は全てヘブル語の一つの言葉「貧しい(アーナー)」に繋がり、この言葉は「へりくだる」にも訳されます。「アーナー」とは、「自分の力では決して解決できない霊的な悲惨な状態」であることを表しているとともに、苦しみの声を上げるの意味があり、そして「その声」に対して、神はその声を聞いて下さるという意味まで含まれています。つまり罪人の声を顧みて下さる神への喜びも、そこには意味されているのです。私共は貧しさを生き、神と共に喜びの命を生きるのです。