9月12日(日)聖日礼拝

「聖 書」 主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けてくださるから、わたしはそれを嘲りと思わない。わたしは顔を固い石のようにする。わたしは知っている。わたしが辱められることはない、と。わたしの正しさを認める方は近くいます。誰がわたしと共に争ってくれるのか。われわれは共に立とう。

 (イザヤ書 50章5~9節)

それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。

(マルコによる福音書 8章27~35節)

「自分の十字架を背負う」

本日の御言葉に「主なる神はわたしの耳を開かれた」とあります。先週の御言葉と同じです。私共は神の声を聴くことができます。それは、神が、御自分の声を聴く者を求めておられるからです。このことは神の声を聴くあなたを今、神が必要とされていると言う意味でもあります。何週に亘り、私共はヤコブ書に聴いて参りました。その御言葉の中心に「この御言葉は、あなたがたの魂を救う」と「御言葉を行う人になりなさい」がありました。本日の御言葉に通底しています。神の声を聴くとは、キリストに倣うとは、御言葉を行うとは如何なることか。本日、「御言葉を聴く」ことを通して、その意味を神に明にして頂きましょう。本日のイザヤ書に「主の僕の忍耐」と小見出しが記されています。本書にて記される「主の僕の歌」の三番目の記事です。ここに登場する「わたし」は神の声を聴き、神に学び続ける「神の弟子」のことです。この「わたし」はキリスト者である「私共」のことでもあります。神の弟子である「わたし」は忍耐をしています。何に忍耐しているのでしょうか。迫害、中傷、侮蔑に忍耐しているのです。彼は何故に迫害を受けているのか。それは御言葉を伝え、御言葉を行う道を進んだからです。「疲れた人を励ますように」と神から御言葉が与えられ、それを行う時、同胞から迫害を受けたのです。しかし「わたし」は迫害を受け入れ、忍耐します。それどころか迫害者をも「受け入れる」のです。この行いは、キリストが教えられた「自分の十字架を背負う」ことと同じです。この命を生きられたマザー・テレサ。マザーは「死を待つ人々の家」を運営する中で、インドの同胞に迫害を受けました。その時、あのマザーでさえ、挫けそうな時があったそうです。しかしマザーは迫害者の為にも祈りを捧げ、「御言葉を行う」道を行かれたのです。一人一人の魂をまことに救う為です。マザーたちは日々厳しい環境の中で、献身的な愛の働きを続ける中で、マザーたちの信仰や神との深い絆は次第に深まっていったと言われています。自分の十字架を背負い、「御言葉を行う」ときに、自分の魂は救われ、神が遣わされる先の人々の魂も救われていきます。(別紙参照)本日のマルコ書にて、主はペトロに「サタン、引き下がれ」と言われたと記しています。これは自分を含め、全ての者に聞かせる言葉です。私共は神と共に自分の十字架を背負い、神の救いの道を共に歩んで参りましょう。