9月15日(日)聖日礼拝

「聖 書」

以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。

(テモテへの手紙一 1章12~17節)

説 教 「限りない忍耐」

先週の礼拝にて「フィレモンへの手紙」を解き明かししました。その手紙にてパウロに執り成しをしてもらった青年が奴隷オネシモでした。彼はキリスト者となり、信仰者として成長し、エフェソの教会の監督になりました。その時のエフェソの教会の司祭がテモテでした。テモテは良い家庭に恵まれ、優等生の人生を歩んだと言っても良いでしょう。その彼は今、牧会の荒波にさらされています。パウロはテモテに手紙を書くことにしました。本日の手紙です。牧会書簡とも呼ばれます。牧会の具体的な手引きが記されています。では信徒には関わりのない御言葉なのかと言いますと、それはそうではありません。教会のあるべき姿を知るうえで、大切な御言葉だからです。それにしても、オネシモ然り、テモテ然り、何故に彼らはパウロを師と仰ぎ、尊敬しているのでしょう。パウロは今、獄中にいて栄光の姿ではないというのに。本日は彼らが師と仰ぐパウロの姿に学びつつ、御言葉の光に照らされたいと願います。本日の手紙の趣旨は牧会者テモテに対して、「異なる教えについての警告」が主なことです。この手紙の結びが、「テモテ、あなたにゆだねられているものを守り、俗悪な無駄話と、不当にも知識と呼ばれている反対論とを避けなさい。その知識を鼻にかけ、信仰の道を踏み外してしまった者もいます。恵みがあなたがたと共にあるように。」となっていることからも理解できます。教会には「異なる教え」(知識)が入り込んでくるのです。それはサタンの働きであるとパウロはテモテに告げます。(1:20)ではサタンに勝利する方法はないのでしょうか。それはあります。本日の御言葉が語る、「『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実です。」に信を置くことです。パウロ自身がこの言葉に信を置く者でした。パウロは自らを「罪人の中で最たる者」と自覚しています。これはキリストの光を受けた者の全てが経験する魂の自覚です。健全な信仰の状態です。パウロは、その罪人なる「私」に、主は「限りない忍耐」をお示しになったと証言しています。この「限りない忍耐」とは何か。それはやはりキリスト者となり、救いの身にありながらも、罪に陥り、サタンの誘惑にさらされ続ける者にに対して、「限りなく赦す愛」を持って、臨まれる主の愛のことでありましょう。主は罪人を救うために世に来られました。そして、罪人を救い、愛し、信頼をして下さいます。「忠実な者と見なして下さる」(1:12)主に信頼を置き、純真な信仰を土台として「愛」を目指して参りましょう。