9月19日(日)聖日礼拝

「聖 書」

ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。

(ヤコブの手紙  3章16節~4章3節)

イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受けいれるのである。」

(マルコによる福音書 9章30~37節)

「上から出た知恵」

先週は、シスター鈴木の御本からマザーの証しを聞きました。マザーは、主の僕の忍耐を生きた人です。マザーは「死を待つ人々の家」にて、人々の世話を始めた時、インドの同胞から迫害を受けました。そのような迫害を受けても、マザーは活動を止めませんでした。マザーの心の中に主の声があったからです。マザーの耳は朝毎に呼び覚まされ、神の声に聴き従うことを求められました。「最も貧しい人に仕えよ」「貧しい人に、あなたは大切な人です。あなたは神様から赦されて愛し抜かれていますと伝えよ」マザーは神の声に聴き従い最期まで信仰の生涯を歩み抜かれました。彼女の生涯は「義の実」「平和の実」を結びました。本日の二書の御言葉の真理を生きたのです。私は先週、私共の心の中に聞こえる声は「神の声」「自分の声」「悪魔の声」の何れであるか判別できますかと問いました。この答えは、その「実(結果)を見れば分かる」です。私共の耳に聞こえる声に聴き従う時、それは自ずと行動となり、結果(実)を生みます。マザーは平和の実を結びました。上から出た知恵に聴き従い、生きたからです。この知恵は「神の声」です。本日のヤコブ書に記されています。「上から出た知恵」は「純真、温和、優しさ、従順、憐れみ、良い実、偏見なし、偽善なし、義の実、平和」の結果を生みます。それに比して「悪魔から出た知恵」は「妬み深さ、利己的、自慢、真理に逆らう、嘘、混乱、悪い行い、戦いや争い、殺人、欲望、神の敵」となる結果を生むのです。私共の前には常に「祝福と呪い」が置かれています。神は私共に、祝福を選ぶように勧めておられます。どうすれば私共は常に神と共に歩む人生を得ることが出来るのでしょうか。それは「僕」の道を行くことです。本日のマルコ書を御覧下さい。主は、家に戻られる時に、人に気づかれるのを好まれなかったとあります。これは群衆に邪魔をされず弟子に「苦難の僕(メシア)」の真理を伝える教育の為でありました。主は家に着いてから弟子に尋ねました。「何を議論していたのか」その答えは「誰が一番偉いか」でした。世(悪魔)の知恵の論議でした。主は子供の手を取り真ん中に立たせ、「子供の一人を受け入れるのは、わたしを受け入れるのだ」と言われました。子供の原語は「パイディオン」で「僕」の意味です。マザーは貧しい人を「私の主」と言われました。小さき者を受け入れ、仕えることが神に聴き従う道です。