9月26日(日)聖日礼拝

「聖 書」

モーセは言った。「わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」

(民数記 11章25~29節)

ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。

(マルコによる福音書 9章38~43節)

「主の民すべてが預言者に」

本日はモーセの言葉「わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」という言葉を通して、「教会とは何か」「霊性とは何か」ということについて御言葉に聴きます。人は教会に何を求めて来るのでしょうか。私は教会に「霊」を求めて来ました。私が教会に足を運んだのは9歳の時でした。そんな幼い少年(パイディオン)でさえ、霊には良いものと悪いものがあることを知っていました。キリスト教には良い霊があるのか。未知との出会いでした。私は少年であったことが幸いしました。主イエスは9歳の少年の、その最初の祈りの時から自ら私の処へ来て下さいました。良い霊との出会いです。私は今も教会に霊を求めて来続けていますが、今は常に「霊」が与えられ、「霊の導き」に生かされています。霊には良いものも悪いものもあります。私共は「神の霊」に聴従するように召されています。「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。」(一ヨハネ4:1)私共が「神の霊」に導かれているか否かは「御霊の実」を見れば分かります。先週お話ししたように、「神の言葉に聴き従う者」は「義の実」「平和の実」を結ぶのです。モーセは何故、本日の言葉を発したのでしょうか。それは従者ヨシュアが長老に加えられていた二人に霊がとどまり、預言状態になっている姿を見、モーセに「やめさせてください」と進言したからです。この言葉に対して、モーセは「ねたむ心を起こしているのか」と返しました。そして、先述の言葉を述べたのです。このヨシュアの姿につながる者がマルコ書のヨハネです。世的な権威意識、偏った仲間意識、党派心、競争心は悪い霊の働きです。教会には小さき者や罪人が集まってきます。主は、この小さな者をつまずかせる者は、石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによいと言われました。私共は教会の中でさえ、「罪人ゆえに、また迷い出た羊(マタイ18章)ゆえに主を信じる小さな者」を偏り見、排除する心を持つ者です。それに比してモーセは「謙遜」でした。「主の民すべてが預言者に」この言葉は権威は神のものであり、民の重荷を負うのは私だけでなく「共に」という思いです。この思いは教会のあるべき姿です。教会は「小さな者」が受け入れられる場所です。一人一人が良い霊に満たされ、互いに仕え合い、互いが生き、愛の実を結び合う麗しいところが教会です。