9月5日(日)聖日礼拝

「聖 書」

わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちを選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。

(ヤコブの手紙 2章1~5節)

イエスはティルス地方を去り、デカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。 (マルコによる福音書 7章31~37節)

「開け」

先週の御言葉「御言葉は、あなたがたの魂を救う」の解き明かしは横田姉の証しを伺いながら、その「命」に触れました。では御言葉が、私共の「魂を救う」とは如何なることであるのか。本日は「私」の魂の救いについて、「命」について御言葉に聴きます。本日のヤコブ書の御言葉は先週の続きです。「御言葉を行う人になりなさい」は本書のテーマですが、これは行為義認のことではありません。神の恩寵を受けて信仰を得た者は、神の御旨を生きるという意味です。その具体的な生活について本日の御言葉は語ります。「主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。」この意味は、主イエスは人を差別されなかった、主イエスを信じる者は主の命を生きる、だから、あなたがたも差別してはならないということです。この意味を更に具体に語るならば、全ての人に対して、「キリストの目と心、キリストの行動を基にして、受け入れる」ということです。横田姉を囲む祈り会にて「キリストの平和」が祈られたのは、この信仰から来ています。しかし「私」には、それは無理と言われる方もおられるでしょう。それは人としての素直な感情です。しかし、それは「魂の救い」を得ていないといえる状態なのです。自分の感情は自分のものであって、自分のものさし、価値観、人の分け隔ては「私」の自由だ。「魂の枯渇」の状態です。神なしの状態です。孤独を生き、死に向かっています。私達には造り主なる神が必要なのです。この「魂の救い」について、本日のマルコ書は「開け」という言葉をもって、私共に提示しています。ここに登場するろう者は私共の代表です。イエスのもとに連れて来られた一人の「ろう者」。主イエスは、その者だけを連れ出し、両耳に指を差し入れ、主の唾をつけて、舌に触れられました。そして天を仰いで深く息をつき(ステナゾー)、「エッファタ」(開け)と言われました。深い共感共苦(うめき:ステナゾー)の思いにて、ろう者に触れたのです。「唾」は「血液」です。主は「神の命」を、その口に与えたのです。ろう者は耳が聞こえるようになっても、すぐには話せません。しかし彼は話した。彼は主の命によって開かれたのです。神を見る目、神の声を聴く耳、神の言葉を悟る心が開かれたのです。この「開く」を「魂の救い」と言うのです。彼の口は何を語ったか。神の素晴らしさと神の栄光を褒め称えたのです。この霊的新生の命を魂の救いと言うのです。