「聖 書」
祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語りあっていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
(ルカによる福音書 9章28~36節)
「栄光に輝くイエス」
私共が教会に来る理由は何でしょうか。私共が教会に来続ける理由は何でしょうか。それは神が招き続けておられるからです。神と交わる私共に霊の恵みを常に与え続けて下さるからです。そのところの深い霊的な悟りを本日の御言葉は私共に与えて下さっています。本日の御言葉は共観福音書に全て記された「主の変容」です。ルカ書の冒頭では「この話をしてから」と始まります。「この話」とは、「主の受難予告」のことです。「主の変容」は以前にも語りましたように、一連の同じ出来事を、同じ順序で記述しています。「ペトロの信仰告白」→「イエスの受難予告」→「キリストの変容」→「苦難の道をエルサレムに向けて進みゆくイエス」という出来事の順番です。「主の変容」は何故、起こったのでしょうか。それは弟子たちのためです。ペトロが信仰告白を致しました。これは私共と同じです。ですから主は受難予告を伝えたのです。この出来事は霊的洞察がなくては測り知ることのできないことです。信仰は神秘であり霊的世界の洞察が必要であるので、主は信仰告白の後、見たことを軽率に語ることを禁じました。信仰を体験した者が謙虚に神に向き合い、神と共に歩み、豊かな霊的洞察(真理)を得るまで、時を待ったのです。しかし主は、恵み(聖霊の働き)によって、信仰を得た者には真理(しるし)を示されました。神御自身がそうされたのです。この神秘は今も私共が経験していることです。主は「受難予告」をした後に、弟子たちと山に登られました。(出エジプト記24章に由来しています。)祈られるためです。そのところで主は夜を徹して祈られました。睡魔に襲われていた弟子たちが、はっきりと目が覚める(ディアグレーゴレオー)ことが起こりました。主がモーセとエリヤと共に語り合い、栄光に輝いておられたのです。そして、その後、神の声が聞こえました。「これに聞け」主の洗礼の時にも同じ声がありました。しかし。その時は「あなたは」とあり、主に掛けられた言葉でした。今回は弟子たちに神は語られているのです。神は主が神であり、御言葉であると告げられたのです。弟子たちは主の栄光を見ました。しかし理解できなかったので、沈黙を守ったのです。主の輝きは、神が与えられる栄光です。主は荒野の誘惑で「苦難の僕」の使命を示されました。今は、「その道」を進みゆく「力」を得ました。弟子も又、十字架の道を往きます。この時の主の姿が弟子たちを励ましました。