4月10日(日)聖日礼拝

「聖 書」
…十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。
(ルカによる福音書 23章1~49節)

「御手にゆだねます」

「棕梠の主日」を迎えました。本日より「受難週」に入り、今週の金曜日に「聖金曜日(十字架)」を迎えます。十字架を想う時です。十字架は論理で思うものではなく、「人格的な出会い」です。その出会いは、「十字架を私が問う」のではなく、「十字架が私を問う」という出会いです。この時期に私は十字架を想う度に、思いが込み上げ涙します。十字架の御愛の深さに感謝の涙が溢れるのです。十字架の出会いは、他人ごとではありません。あなたの救いに関わる大問題です。本日の御言葉は、そのところの大切なところを余すことなく伝えています。主は十字架上で最後に7つの言葉を残されました。この言葉は福音書にすべては記されていません。それぞれがそれぞれの言葉を残していて、合わせると「最後の7つの言葉(ハイドン)」となるのです。ルカは他の福音書と比べると、大きな差異があります。他の福音書は「苦難の僕」(イザヤ書53章)を表す「神から捨てられる死」を十字架上に示しています。しかし、ルカは「苦難の僕」を知りながら、神の栄光である十字架を示しているのです。ルカは、十字架上の言葉を3つ残しています。「彼らをお赦し下さい」「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」「わたしの霊を御手にゆだねます」この3つの言葉は、他の福音書には記されていません。又、お気づきのように2つ目の言葉は「十字架の栄光」の言葉です。十字架の栄光の死が「永遠の命」(楽園)に結び付くという約束の言葉となっているからです。他の福音書の罪人は悔い改めた者は記されていません。ルカは私共に、この「悔い改めた罪人」になるよう勧めているのです。十字架の前に全ての者(群衆:クロノス)が来ています。十字架の出来事を見て、胸を打ちました。神の慈しみを見たのです。主を知っていた者たちも「遠くに立って」見て(ホラオー)いました。私達も十字架を見ています。私共は十字架をどのように見るのでしょうか。主を受け入れなかった者は、主イエスを「神からのメシア」「ユダヤ人の王」と呼びながら嘲笑しました。「今日、楽園にいる」と言われた罪人は主のことを「イエス(神は救いたもう)」と呼びました。彼はイエスに霊をゆだねたのです。主が息を引き取られる時に、「わたしの霊を御手にゆだねます」と言われた言葉と同じ意味です。私共はキレネ人シモンが主の十字架を負いつつ主の後に従ったように、罪人を愛す主の愛を想い、主と共に歩んで参ります。