「聖 書」
すると、長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る。彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さ、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へと導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。
(ヨハネの黙示録 7章9~17節)
「白い衣を着た者」
聖ヨハネは小羊が巻物の封印を一つずつ開くのを見ました。その一つ一つが開かれるたびに「災い」を目にしました。あれほど巻物を開いて欲しいと願っていたヨハネは、どんな気持であったでしょう。7つの内、6つ目が開かれた時に「天変地異」が起こり、人々は「玉座に座っておられる方の顔と小羊の怒りから、わたしたちをかくまってくれ」と叫びました。彼は「神と小羊の怒りの大いなる日」を見たのです。この光景はダニエル書の「定めの七十週」(9章)の最後の一週(7年間)の「患難時代」の出来事です。ダニエル書もヨハネの黙示録も「神の黙示(アポカリュプシス)」であり、「全き真理」ですが、世界の予定が全て決まっているわけではありません。神は「黙示」を通して、私共に「回心」と「悔い改め」、そして「希望」を与えようとしておられるのです。「主の日」は何時来るのか。それは神のみが知っておられます。最後の封印が開かれる前に、ヨハネは再び「天上の礼拝」へ招かれました。(その前にヨハネは「神の刻印」患難期の伝道者の姿を見ました。この光景も慰めの出来事です。)ヨハネは「白い衣を着た大群衆」を見ました。「白い衣」は以前の説教でも語りましたように「殉教」のしるし(6:11)ですが、「勝利を得た者」(3:5)に主から与えられる服でもあります。「白い衣を着た者たち」は玉座の前にいて、昼も夜も神殿で神に仕え、賛美と礼拝を捧げていました。そして彼らに苦難(飢え、渇き、暑さ)は無くなり、霊の命の水が与えられ「涙はぬぐわれま」した。彼らは主に守られ、「臨在」が常に彼らを覆っていました。ヨハネは見たのです。彼が愛した兄弟たちが「白い衣」を着せられ、天国で慰められ、大いなる者とされている姿を見たのです。ヨハネは胸が熱くなり、神に感謝の祈りを捧げたことでしょう。本日の「大群衆」は患難期の殉教者だけを語ってはいません。天国にいる全てのキリスト者です。彼らは、「救いは、玉座に座っておられる神と小羊のもの」と告白した者たちです。私共には永遠が用意されています。その永遠は神(愛)の慈しみの世界です。私共の全てに、「終わりの日」が来ます。そして「主の日」、全ての者が「神の裁きの座」に立つのです。しかしキリスト者は「白い衣」を着ていることにより無罪が確定します。自らに汚れがあっても「白い衣」(血の贖い)が聖くするのです。聖ヨハネはキリスト者の報いを見て、「天国の希望」を得たのです。