7月10日(日)聖日礼拝

「聖 書」

御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。
 (コロサイの信徒への手紙 1章15~20節)

「御子は見えない神の姿」

先週、私共は御言葉に聴きつつ、「一本の杖」の信仰の姿を通して「私共の教会の進むべき道」を示されました。私共の教会の進むべき道は「自分が」ではなく、「互いに」である。「自分」という利己的な虚栄を捨てること。互いの信仰的成長を競い合ったり、教会成長のことで張り合うことなどはやめる。私共は「互いに」受け入れ合い、「互いの」成長の為に「互いに」仕え合う。私共は「キリストの体」になる。このことが私共の進むべき道です。本日の御言葉は「キリスト賛歌」(15-20節)と呼ばれるものですが、何故、パウロ先生は、コロサイの信徒に人々に書簡を送ったのでしょうか。それはパウロ先生の同労者エパフラスがコロサイの人々に伝えた「福音」がグノーシスの思想によって捻じ曲げられつつあったからです。私共も又、「進むべき道」を誤るならば、同じくパウロ先生の訓告を受けるでしょう。私共は本日の「キリスト賛歌」を通して、「キリストの体である教会」の姿を学び直しましょう。本日の御言葉は「御子は、見えない神の姿」である、また「御子はその体である教会の頭」であると語っています。私共は「主の体の肢」です。私共は「教会=キリストの体」です。私共はキリストにありて「一つ」なのです。ではキリストは何であるか。キリストは「神の満ち満ちた本質」です。つまり主イエスは「愛そのもの」であるという意です。私共は「愛」とつながり「一つ」なのです。イタリアのロッサーノ司教区美術館に「善いサマリア人として描かれたキリスト」の絵画が展示されています。これは信仰を通して描かれた絵画です。私の目には「善いサマリア人」は「キリスト」に見えるという意味です。私は日曜学校の劇で「善いサマリア人」をしました。私は強盗に襲われて身動きができない「傷ついた旅人」を演じました。確かに旅人を演じた私にも「サマリア人」は「主イエス」に見えました。この体験は私は罪人であり「助けを必要としている私」の自覚と、その瀕死の私を救って下さるお方は愛の神「主」だけであることを知る「悟り」(エピグノーシス:真の知識)になりました。神は愛です。ですから神は私共の罪を贖うために御子を送って下さいました。グノーシス(知識)の救いはストイケイア(諸霊)の支配であり「恐れ」です。「善いサマリア人」に登場する祭司たちも恐れから、愛から離れたのです。私共の頭はキリストです。主にのみ聴き従い、愛の道を共に参りましょう。