7月31日(日)聖日礼拝

「聖 書」

さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命はキリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたもキリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。…古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。

(コロサイの信徒への手紙 3章1~11節)

「造り主の姿に倣う」

コロサイ書の結びです。パウロ先生は手紙を結ぶにあたり、キリストの体である「教会」を完成させる「きずな(帯)」(3:14)についてコロサイの信徒の人々に伝えました。先週、私は「私共が教会である」「私共は教会の節と節、筋と筋である」そして、「(教会の)頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。」(2:19)と語り、私共は節と節、筋と筋であり「教会を支える者」であると語りました。私共は如何にして教会を支える者となるのでしょうか。御言葉に聴いて参りましょう。本日の御言葉は「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け」と語ります。私共キリスト者に「造り主に倣え」とパウロ先生は告げます。それは如何なることであり、それは可能なことなのでしょうか。私は以前に同じ御言葉で、「上にあるものを求めよ」の説教題で解き明かしをしました。(2019.8.4参照)コロサイの教会の危機を踏まえて、「傲慢」と「欺瞞」を捨て去り、「神を神とする信仰」(自分が下であり、上である神に聴く信仰)に立ち帰るようにと語り、私共の教会の現状に適用しました。あれから3年経ちました。私共の教会も成長させていただきました。本日の御言葉は今の私共への適用です。「上にあるものを求めなさい」に続く、(3:2)の直訳は「あなたがたは上にあるものに心を向けよ。地上のものにではなくて。」です。意訳で「心を引かれないようにしなさい。」は加えられています。しかし、この意訳は誤訳です。御言葉に対する甘さがあります。続けて語られる御言葉(3:5)「貪欲は偶像礼拝にほかならない。」は「己が腹を神とする偶像礼拝」という意味が込められていることからも確かです。私共は「古い人」(地上の肢体)を、その行いと共に脱ぎ捨て、「造り主の姿に倣う新しい人」を身に着ける必要があります。「造り主の姿」とは週報に掲載された「飼い主わが主」の姿のことです。主は教会が「キリストの体」として完成するように、私共を見守り、養い、「教会の頭」で居続けて下さっています。主は「隅の要石(キーストーン)」です。主は全部の「石」を「一つにする」(シナーモロゲオー)「頭石(要石)」です。教会を完成させる「きずな(帯)シンデスモス」は愛です。シンは「共に」です。デスモスは「手枷」です。主は私の「軛」は負いやすいとも言われました。私共は造り主の愛の姿に倣い、「真の教会」を目指し「一つ」とされます。